岩崎屋銅鉄商 太田町

岩崎由次郎
銅鉄商
太田町1丁目5番地(5)
支店相生町4丁目47番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

岩崎兄弟商會代表社員 岩崎次三郎「合名會社岩崎兄弟商會代表社員岩三崎三郎君は又鐵業銀 行及橫濱肥料會社の重役として令名嘖々たり、君は故由次郎氏の長男にして明治六年十二月生る、幼にして西下し辻本商店にて銅鐵の商業を實修し卅六年令弟友次郎君と協力して岩崎兄弟商會を組織し販路の擴張に勉む、商運隆々として日に昌也、君資性溫順寡默寧ろ實行的の人たり、而も志博愛慈善に存し事苟も公共の稗益に關する者は奔走盡力至らざるなし、實に少壯實業家中稀に見る德望家なりとす、」横浜成功名誉鑑

 岩崎兄弟商會代表社員 岩崎友次郎「岩崎友次郎君は故由郎氏の二男にして、先代市五郎氏の養嗣なり、兄と共に岩崎兄弟商會の代表社員として斯界に名を知らる、君夙に横濱商業學校を卒業し尚ほ外人某氏につき英語を研究し造詣頗る深し、卅八年四月歐米各國の都市を歷遊して歸朝し直輸入の途を開き、四十年四月再び海外漫遊を企て同十一月多大の好結果を齎らして歸へれり、君天性機敏にして豁達能く謀り能く斷ず、少壯實業家とし前途の光彩陸離れるものあり、關係事業としては中央倉庫株式會社監査役に擧げられ現に其任にあり、君は實に明治十四年八月の出生なり、」横浜成功名誉鑑

岩崎次三郎「語に曰く百里の道を馳せんと欲するものは先づ其車に油さずと蓋し大なる事業をなさんとするものは大なる準備なからざるべからざるを言ふなり岩崎三郎君の如きは其意を得たるものか君は明治六年を以て神奈川町に生る父は由次良氏君は其の長子なり漸く長じて横濱市八木下商店に入りて丁稚となり銅鐡の商業を見習ひ居ること多年熱心勤勉一に主人の爲めに怠らず同僚皆君の精勵着實を称讃せざるものなし三十六年三月主家を辞して家督を相続し父の業を継ぎ其八月を以て兄弟商會を創む是に於て兄弟協力して業務に黽動し精力主義を以て販路の拡張に努む斯くの如くして戮力熱心の結果三十七年十月に及んで支店を相生町に開設するに至れるを以て如何に業務の隆昌を来しつつあるやを想像し得るにあらずや明治三十六年十一月推されて鐵業銀行監査役となり爾来繼續して今日に至るまで其の職に在り尋で三十九年十二月 横濱肥料株式會社の創立せらるや又選ばれて之が取締役の地位にあり其他公共事業に就きては甘七八年及び卅七八年の戦役に際して軍國の爲に東奔西走して盡瘁せしところなからず學校又は道路修築に至るまで社會衆庶の爲めに資金を吝まず努力せり君資質温恭謙人に接するに靄然として頗る慇毫も圭角を設けずされば家庭は常に静和圓満にして春風駘蕩たるが如く實に羨望するに堪へたり而も君尚ほ漸く靑壯前途甚だ豊かなり吾人は君が業務の更に倍々増大し來りて斯業に覇を稱し大なる成功をなし國帑の充實に力めんことを望む彼の徒らに空理を談じ空想を抱きて敢て實行の念な準備の覺悟なくして一躍杰業の成功を得んと欲するものは先づ来て君が傅記を三誦し以て静に自己の非望を反省すべきなり」京浜実業家名鑑

岩崎友次郎「凡て事其の精妙の域に到達すれは期せずして世の嘆賞を受くること今更喋々の辯を要せずと雖も成功の裏面には必ず千百の苦難伏在せるものなること明かなり殊に君の如き青春少壮の士にして斯かる成功の歴史を持てるものに於て然りとす君は横濱市神奈川町の出身にして明治十四年八月廿八日を以て生る父を由次良氏と云いて君は其の二男なり父君は曾て幼時横濱に於て或る金物商店に奉公し備さに商業の経験を積み後獨立して太田町1丁目に於て金物商を営みしが爾來事業繁盛に赴きしも不幸中途にして黄泉の客と爲れり茲に於て君は令兄次三郎氏と共に謀りて其の業務擔當員と爲り専ら事業の經營に黽勉す其外中央倉庫株式會社監査役と爲りて盡瘁する所あり君人と偽り眞摯温厚職務に忠實にして且つ機敏の才ありて豁達能く謀る嚢に横濱商業學校を卒業し尚外人某氏に就きて英語の研究に力め造詣深し君夙に社會の趨勢
を洞察し大に悟る所あり先づ歐米に渡航して彼の國の文物制度及び業上に於ける諸般の事業を 察して帰朝し三十八年四月更に米岡及び英國を経て同年八月蹄朝後は益々業務を拡張して海外諸國と直接取引を開始するに至れり更に昨年四月再び歐米に渡航しシカゴイリノイス製鐵場ピッツバーグァカーネギー製鐵場及桑港紐育華聖頓をて歐洲に赴きパーミングハムニウポートウルバハンプトンに於ける各製鐵工場及び倫敦巴里伯林等の各都府を視察し同年十一月歸朝せり吾人は之れより愈々君が事業に活動し二十世紀に於ける模範的實業家として英名を発揚するに至らん事を切望するもの也君や人となり活撥進取の気性に富み一旦の素志は千艱來り萬難到ると雖も貫徹せずば止まざるの慨あり今日の成功豈偶然ならんや」京浜実業家名鑑

0 件のコメント:

コメントを投稿