西村写真館 相生町

西村写真館
写真館
福富町2丁目68番地→相生町1丁目公園前
明治の横浜手彩色写真絵葉書

西村賀萬三 福富町2丁目68番地「文久元年五月尾張名古屋市七小町に生る父を景達と云ひ尾州大御番役にして後尾張國愛知郡彌富村長たり君は長男にして幼少の時より實業に志せり明治十二年君が十九歳の時東京に出で尾州侯邸内荒木氏に就いて漢學を修む十六年三月奮然東京の地を去りて横濱に出で玉村氏に寫眞術を研究せり其れより三十五年迄君は玉村方に寄留して刻苦其業に従事せんが其間の君の辛酸は實に一方ならざりき寫眞修業のみなれば別に難儀の事にもあらざれども如何にせん食客の悲しさ朝は早く夜は遅く水を汲み薪を割り掃除の事より客の接に至る迄殆んど君の手を勞せざるもの無かりければ餘暇と云ふの殆んど無く若し普通の人間ならば迚も身體の續く所にはあらで半途にして其家を辭したりしならんも君の意志の堅固なる目的に向っては水火も辭せざるの勇猛心は其等の萬苦に打勝ちたるのみならず餘暇なき餘暇を利用して二十世紀に活動せんとするものは是非亦英語を學ばざる可らずと思ひて夜學に通ひて英語を研究せり其精力の絶倫なりしは當時君を知るものの等しく驚く所なり三十五年玉村家を辭してよりは如何にして店運を隆盗ならしめんかと苦心せしが我國の漸く世界に知られ風景の美にして世界に冠たるを利用するに若かずと日本三景は無論到る所の風景を撮影して或は寫眞とし或は寫眞帖として外人に販売せしかば大に外人の好奇心に投じて是を求むる者甚だ多く遂に今日の盛大を見るに至れり君は寫眞術の既に一個の美術にして高等の趣味ある如くに總てのものに趣味を有し知るよりも味ふものを好む所より利慾よりも趣味の多き釣魚は君の最も好む所なり而して黒白を並べて知人と對陣するは君が唯一の慰安なりとは甚だゆかし」京浜実業家名鑑


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