開港紀念電気館 福富町

神奈川縣案内誌
開港紀念電気館
活動写真館
福富町1丁目30番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書

開港紀念電氣舘 內山梅吉「活動寫眞は今を距る十一年前即ち明治卅二年八月辨天通玉村寫眞館に外人より撮影の注文を受けたるに起因す、當時僅かに二三回劇場を之に當て開會せしに過ぎず、爾來長足の進步を來して、東京に於ける吉澤寫眞店京都に於ける横田商倉の如き事専門に器械映画を製造し、叉傍ら興行を爲せり、純興行側には駒田好洋一派、堀江謙吉一派の如き全園巡業隊を組織して各地を歴演せり、横濱市内には常設館數ヶ所あり松ヶ枝町の横濱電気舘及び大祝舘、福富町の紀念電氣館等其最なるものとす、紀念電氣舘は内山梅吉君個人の經營にして、資本金二萬五千餘圓を投し設備第一と評せらる、君は共他賑町敷島舘をも監督し、尚進んで横須賀若松町に常設電気舘建設の計畫中なり今此の内山君の継歴を按ずるに又立志傳中の人たるを失はす、そを略叙せむに郷里は伊豆園三津の人、明治六年の出生にして父と共に横濱に移住し、横濱商業學校に於て教育されき、義兄は有名なる米国歸化人内山蘆雪氏なり君廿一才學校を出てて後義兄の業を助けて奥州勝田山硫黄採取事業に従ひしか、廿三歳より山下町百八十番グロッセル商會輸入部に入り、勤績十年に及べり、卅二の春東京麹町ポーラック商會輸入部主任に輾ず、精勤衆に超え商會主の信頼浅からさりしか、多年の辛労終に神経衰弱を来たし病勢日に重かりしかば、終に職を解して保養旁々全國視察の途に上れり、東海の水中國の山、君の病魔を驅りて幸に健康舊に復せしかば、爾来辨天通玉村寫眞舘の經營を托せられ、或は資本を支給し叉各債権者を代表して業務一切を監督することとなりしは、是ぞ君をして活動活動寫眞に従事せしめし動機とはなれるなり、君資性率直にして勤勉、父の遺訓なる『居十中』と云へる語を守り、忍耐節約貯著を以て金科玉條となし、箴言深く胸裏に滲透して習ひ終に性となりぬ、始めグロッセル商會に雇ははや、毎月手當僅に五圓に過ぎす、精励の結果後には三百圓以上の収入ありて、商會を辞せし當時は既に三萬有餘の貯金ありしと、其の克己と精勤には聞く者舌を捲かざるものなし、又曾て久保山に横濱墓地清掃会社を起し市民の便利を計り今尚其監督の地位にあり、又奇篤の行といふべきなり、」横浜成功名誉鑑

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