實業之横濱 |
林屋商店
鶏肉スープ鑵詰商
鶏肉スープ鑵詰商
野毛町2丁目78番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書
小林吉五郎 野毛町2丁目78番地「剛直にして克己の心に富み酒を廃し煙草を禁じ刻苦精勵の結果遂に今日の盛運を見るに至りぬ君が人と偽りを叙して以て新進者の興奮劑たらしめんか君は元治元年十一年市内四ッ谷區に生る即ち源之助氏の四男なり八九歳の時寺小屋に於て僅かに習字を學びしも當時家甚だ豊かならざるを以て 家政上より奉公に出でざる可らざるに至る即ち十歳の時某家の小僧となり更に轉じて某々の諸店に入り年来の宿志を抱いて風雲を待つこと八九年に及ぶも未だ機の至らざるにや前途尚ほ茫々として何等の得る所なし茲に於いてか君大に心に決する處あり奮然蹶起して僅に圓餘の資本を以て鶏肉切賣の露店を開きぬ時に君思へら假令微々たる露店なりと雖も一個獨立の營業たり他の頤使に動かんよりは遥に快なりと爾後粒々辛酸を甞むること二歳にして漸く少資を得依て麹町の富士見町に一家を構へて開店し一意勵精の結果漸次盛運に向ひ四五年の後には店頭常に數百金の商品を並ぶるに至れり然るに好事魔多し夜半に嵐の吹き荒みて満閼の櫻花散亂するは是れ浮世の常態なれば人間亦遂に之れを免るる能はざるなり即ち數年ならずし不幸一陣の魔風は君が身を襲いて失敗を来し君をして遂に破産の止むを得ざるに至らしめき然りと雖も君は之を以て時勢の然らしむる處敢て悔ゆるに當らずとなし意に介するなく少計りの荷物を提げ飄然として横濱に至り僅々十數圓の資金にて鶏肉スープ製造販賣店を開業し傍ら之が切賣の行商をなせり是れ即ち君が二十九歳の時なりと爾 來十星霜の久しき業に倦むなく臥薪嘗膽の結果は數多の富となりて現はれスープ製造及び鶏肉切賣は同市第一の商店となり更に鶏肉罐詰製造高に至 ては全國第一となすと云ふ」京浜実業家名鑑
林屋スープ店 野毛町2丁目78番地 主人小林吉五郎「牛肉罐詰は至る處に販賣せらるるも鶏肉罐詰に至っては近来之を製造するものなし、そは原料の高價なるが爲めに之を製するも賣品に適せざるに依るも先づ鶏肉のスープを製し罐詰製造の副業と爲す者あらは則ち斯業に成功したる者にして東京府下にある二百餘ケ所の鶏肉罐詰製造所が一として成功せざるは斯の副業を營むことなきに由れり林屋スープ店主茲に見るあり、先づスープを製して衛生家の滋養品となし傍ら鶏肉罐詰を製して海外各地の需要に應ず、日本煮の商標を附して京濱間に販賣せらるるもの是れなり、別にボイルド、チキンあり同じく罐詰として賣行頗る宜し、英一斤入三十銭、一ヶ年の販賣高二万五千圓以上に達し目下製造所の擴張中なり」現在の横濱
林屋スープの本舗 小林吉五郎「銀難汝を玉にすとは古き諺なり、君の立志程凄惨なるものはあらざりしなり、されど君は所信あり、赤貧洗ふが如き時代に泰然自若初一念を貫徹せざれば止まざるの敢為の決心は眉宇に現はる、明治廿六年東京より横濱に來り、僅少の資本もてスープを製造し、板場も配達も一人にて一ヶ月二圓の収益を得たり、尋常一様ならんには直ちに放棄すべかりしも、忍耐と克己はよく君を支配して次第に顧客を加へ、日に月に繁忙を極めしにより、終には罐詰製造をも開始し、市内到る處として林屋スープの廣告を見ざるなく、國内は勿論遠く東洋の諸港太平洋沿海岸の埠頭林屋罐詰を知らざるものなきに至れり、君の成功や實に空拳より鍛ひ出せしものといふべきなり、君年齒四十六、熱心なる基督教信者なり、」横浜成功名誉鑑
「野毛町二丁目を鳥渡と這入ると左側である。見付きは甚だ好くないが商賣は確實であって、徒らに外構のみを飾って鬼面人を驚かす底の亜流汲んでゐない。鶏肉の鑵詰にかけては横浜一否全国一であると主人は云ってゐる。東京の二三ヶ所でもやってゐるがホンの少しであって、大仕掛けには製造して居らないとのことだ。うれは實際材料と賣價とが引合はないから自然手控えるのであって、太平洋沿岸で日本移住民のある處へは、本店の鶏肉鑵詰が珍重されてゐて、注文が續々と来るさうだ。市内では鶏肉スープの賣行が好く各病院を始め諸方へ日々配達をしてゐるので、 廿五年に開業した當時より漸次販路が 擴張して盛況を来してゐる」実業之横浜
神奈川県銀行会社実業家名鑑 |
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