シルク |
忽那惟次郎商店
絹物貿易商
真砂町1丁目7番地(321)
明治の横浜手彩色写真絵葉書
羽二重業界の奇傑 忽那惟次郎「眇たる一身を提げて他郷に來たり、幾多の先輩を凌駕し馨望隆々とし起るに嘗て、誰か快哉を呼ばざるものあらんや、忽那商店主惟次郎君は伊像の人、幼にして大阪の一商店に入り、呉服類の経験を積み、明治廿年横濱に来り、辨天通大平屋に投じて貿易業に従事す、時に年廿四、此の二商業の閲歴は實に君が今日ある礎石を築きしものにて、明治廿九年に至り、萬代町に於て獨立自營の絹物賣込の業を瓶む、當時君の資本や僅に十金、大膽と機敏は他の模倣し能はざる處、加ふるに自家継験の商略は倐忽にして忽那商店あるを知らしめき、謂ふ勿かれ事偶然になると、其の間の消息豈尋常門外漢の窺ひ知るべき、實に額に汗の乾く間とてはなかりしなり、寝食を忘る、底の形容は君が平常茶飯のことたりしは論を俟たず、十有除年の奮闘能く數萬の巨利を攫して終に現住所に移縛し、斯業界の泰斗を以て推さるるに至れり、君叉絹布製練業に熱心し鹿印製練羽二重の信用は海外到るに喧傳せり、則ち其社長たる川俣絹布製練株式會社は、福島県を始めとして英彿両国の同業者が之を買収せんと試みたるも、自己一時の利益は國家長久の策にあらずして断然謝絶せりといふ、今現に絹物組合評議員及全國絹織物組合代表員となり、商業倉議所議員として頗る聲名あり、君の如きは斯界多く難き人才なる哉、」横浜成功名誉鑑
忽那惟次郎 真砂町1丁目7番地「君は元治元年四月五日を以て愛媛縣風早郡中島村に生る父を治郎太氏と稱し君は其の次男にして家は世々農を以て業とす君年甫めて十一歳にして大阪市に出で某呉服店に入りて商業見習たること數年明治十九年十月更に東京に來りて麴町區知人某方に身を寄せ静に時勢を窺ひ世の趨勢を察して大に爲す所あらんとし以爲らく將來の活戦場は一に横濱にありと明治二十年八月出濱して辨天通り大平屋に入りて貿易業に従事すること久しく大に經驗習練する所あり明治二十九年三月萬代町に獨立自營の一家を構へ資本金僅に拾圓を以て絹物賣込商を開始し幾多の艱難に遭遇し幾多の嶮路を踏破して屈せず是れ皆自己の心力を試むるの試金石なり自己立脚の地歩を占むるの階段なりとし鋭意 熱心殆ど身命を捧げて業務の發展を企てしかば天何ぞ此の燃ゆるが如き熱血と巖をも砕く堅鐡の志に感ぜざらんや爾來十二年間の星霜をて萬萬の富を贏し得て遂に眞砂町に廣大なる家屋を建築し數多の雇人を使役し日に繁昌の幸運に接し今や市内屈指の豪家として其の名噴々たるものありと云ふ明治三十二年以來市內同業者組合の評議員となり同年全國絹織物組合の代表員となり翌年更に横濱商業會議所議員に推選せられて精到周匝の識と 聰慧明敏の見とを以て嶄然頭角を抽んじたり殊に明治三十二年五月川俣絹布整練株式會社を創立し君は其の社長として専ら外交の衝に當り經營畫策の任を盡せしかば今や社運隆々として旭日昇天の 勢を呈し現に福島縣廳より本社買収の件を提供せしも断然として是れを郤け更に英國より四十萬圓佛國より五十萬圓にて各々買収を申込しも亦斷然として是れを拒絶し益々會社の畫策經營の歩を進め發展向上に盡瘁しつつありと云ふ」京浜実業家名鑑
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