横浜貿易新報社 本町


横浜貿易新報社
新聞社
本町6丁目84番地
明治23年(1890)横浜貿易新聞を東京で創刊。幾度かの変遷を経て明治39年(1906)に横浜貿易新報へ改題した。
明治の横浜手彩色写真絵葉書

横濱貿易新報社長 富田源太郎「我國新聞紙の權輿は實に横濱にあり、元治元年岸田吟香氏等が埋地百四十二番館に於て發行せる『新聞紙』と題せし者即ち是なり、次で蘭人ベーリ氏の萬國新聞岸田吟香氏の『もしほ草』福地源一郎氏の『江湖新聞』等の發行あり、明治六年讀賣新聞出で之と前後して東京日々、報知、横濱毎日等の起るに及び稍や體裁を爲すに及べり、横濱毎日は後に東京に移轉し、其後に起りたるものを横濱貿易新聞とす、廿三年二月の創刊にして、宇川盛三郎、高橋義雄、鈴木梅四郎、川上英一郎等の諸氏相繼承して執筆せしが、卅七年五月に至り富田源太郎君入て社務を督するに及び、從來對峙したる橫濱新報と合名して貿易新報と改題し、次で横濱の二字を冠して今に及べり、貿易新報は横濱貿易界の機關として、獨占場裡に活動し、東京に近き難境に處し敢て下らず、三色刷の好體裁にして機敏迅速なる報道は優に大新聞の俤を存す、最初は貿易商諸氏の後援ありしも今や全く富田君の經營に歸し基礎全く定まれり、富田君は當市商業學校出身の俊才にして、曾て東京商業會議所の書記となり叉バウデン商會の館員となり、頗る敏腕の目あり、次で住吉町二丁目に輸入肥料及雜貨引取の店舗を開きしことありしも、今や全力を新聞事業に傾注して其成績見るべきるのあり、横濱經濟會の發起人兼幹事、横濱市會議員の一人として、終始思ひを市の改良施設に注ぎ貢献する所多し、賦性飄逸洒脫邊幅を衒はず、而かも圖書編著の意匠構想、宴席會同の趣向計畫等着眼奇警にして人の意表に出づ、貿易新報に於ける各種の珍趣向は常に社會の喝采を博せり、君の著『富田氏英語會話』及『外國爲換の説明』等は共に世に行はる、四十二年十二月貿易新報社に組織の變更あり和智郁郎氏理事として入社す、」横浜成功名誉鑑


現代之横濱

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