高島山
飯綱権現の社があったので飯綱山と呼ばれていたが、高島嘉右衛門が転居してきてから高島山と呼ばれるようになった。神奈川町の高台にあり横浜港を一望できた。
明治の横浜手彩色写真絵葉書
高島嘉右衛門「君は舊南部藩の人天保三年十一月江戸に生る材木商遠州屋嘉兵衛氏の第六子也幼名を清三郎と云ひ諸兄皆夭折す君依りて嗣となる幼にして穎敏𦖟悟好で易學を修め呑象と號す弘化四年先考南部侯に請ふて其領内閉伊郡宮古在境澤鉱山を採掘するに當り君年甫めて十九相共に従事し諸般の事務を執る父の歿後現名に改む安政二年家例に依り小豆飯を炊く時に釜忽ちに鳴りて暫く止まず君之を占ひて大火の微となし即ち其家屋倉庫を抵當とし材木を買入れ不測の變に備ふ此年十月江戸大地震あり君急馳して佐賀邸に至り負傷者婦女老幼を避難せしめ極力其急を救ふ而して佐賀侯の新邸建築を請負ひ旬月にして二萬有餘圓を利す横濱開港に及び太田町に雑貨店を開き貿易に従事す同五年幕府黄金の外國輸出を禁じ従業者盡く官に捕はる君罪を一身に負ひ他皆放免せらる在獄中弟德右衞門氏易脛を寝具に隠し差入る君是より終日易経を繙き遂に其蘊奥を極む解放後再び横濱に赴き建築受負業に従ひ高島屋と稱す明治三年官命を奉し横濱神奈川の海面を埋め立て鐡道及國道敷地工事に従事し伊勢山下に語學校を建設し大に人材を養成す官其の功を賞し三ッ組銀盃を賜ふ同四年瓦斯燈事業を横濱に起し六年成功す翌年三月車駕瓦斯局に幸し特に勅書を賜はり其功を嘉賞せらる十年西南の役起るや君又兵制の爲め大に盡す所あり十五年五月海防費一萬圓を献納し從五位に叙せられ金製黄綬褒賞を賜はる二十五年北海道炭鍍鐵道株式會社長となり今尚ほ其任にありて兼て又現に護國生命保険株式會社々長たり二十六年北海道拓殖事業の忽にすべからざるを思ひ内地の無産者を石狩十勝に移して開墾に従事せしめたり著す所高島易斷高島易占等共に世に行はる」京浜実業家名鑑
「高島氏邸は高島山に在り、坂を上れば先づ勝軍飯綱權現社在り、前立は金比羅權現、奥の院は地蔵菩薩成り、境内櫻多く日本橋御影堂寄進櫻樹千本と社記にあり、明治九年より高島嘉右衛門氏邸宅となし、更らに梅櫻を移植し、常に開放して、諸人の遊覧に任かす」横浜成功名誉鑑
「鎮守大綱神社 横浜市港を一眸の中に集め右に富士の秀峯を望み。左に雲煙の間房總の連山を指呼するを得るは此勝地なり。宜なり横浜の製造者とも日本の先達とも謂ふべき。偉人高島嘉右衛門翁地を此處に相し。和洋式の宏大なる建物に起臥せらるゝや。加フルに春櫻、秋紅、冬白、夏涼を擅にす。本市に足を入れん人は先づ訪はざる可らず。山中に一祠あり大綱神社と云ふ。金毘羅宮を併祠し毎月十日縁日には全市の信徒参拝し雑踏甚しく。本學寺は山麓に有り。嘉禄二年の創建にして開港當時公使館に代用せられ。第一次通商條約を此處にて締結せられし履歴を有す。今の本堂は火災の爲改築せられしもの。本市の代表寺院とも云ふべき立派なる堂宇なり。認可僧堂有りて數十人の雲水を養ふ。名物黒藥は此所より出づ。」横浜商業遊覧案内
横濱市の元勲 高島嘉右衛門「呑象高島翁通稱は嘉右衛門、天保三年江戸に生る、其先は常陸より出づ、初め材木商を營み、或は鑛山探掘に從事す、安政年間横濱に來り、金貨賣渡しの禁を犯して奇禍を估ひ、幽囚七年、具に痛苦を甞めて易理を研究し、龜算天に通ず、呑象の號ある蓋し之れに胚胎す、明治初年再び橫濱に來り、工事請負及幾多の事業を經營し、當路の貴紳と訂盟す、高島町を埋立てゝ鐵路を通じ、獨船レイン號を購入して北海定期航路を創始し、瓦斯局を建設して全市に光彩を加へし等、其事業の雄大にして、着眼常に衆人に先だつ、明治三年瑞人カドレー米人ベラー荘田平五郎小幡甚三郎等の内外人を聘して私立學校藍謝堂を建て、七百餘人の俊才を養成す、此偉學天聴に達し賞状銀杯を下附せらる、明治六年學校を擧げて横濱市に寄附せしが、出身者にして朝野知名の士少なからず、明治七年三月車駕横濱に幸じ、次で高島 氏の甲邸に臨ませ給、家門の光栄茲に至て極まれりと云ふべし、翁嘗て企圖せし奥州鐵道は、明治十四年に至り政府及華族諸氏の手によりて敷設さるることとなれり、此の事實に疇昔全力を傾注せし處なりしが、我國無験の事業として當路は無謀の甚しきものとして排斥せしより、明治九年俄かに瓦斯局高島町及び横濱にある一切の不動産を六十餘萬金に賣却して、居を神奈川飯綱山にトし、最も會心の易理に隠る、時に年四土四、爾来三十餘星霜、掣電摶雷の手高島易断の著と化して人間以外に超脱せり、翁日く余の學や形而上のもの豈泰西浅薄の學理得て金及し得可けんやと、此書漢洋二文に翻訳されて廣く海外に及ぶ、」横浜成功名誉鑑
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