平沼
天保10年(1839)保土ヶ谷の平沼九兵衛によって埋め立てられた地。明治34年(1901)横浜市に編入した。
平沼九兵衛 西平沼町75番地「人生必須の䀋科を大販賣する調法なる店舗たり品質善良にして市内に多くの華客あり殊に工場製作場會社等に有力なる顧客多しと」京浜名家職業総覧
平沼町の開拓と平沼亮三「金川臺下漫々たる沼澤潮來れば蘆葭を沒せし處に、或は鹽田を作り或は園圃を設けしが、今や儼然たる新市街と化し、倉庫峙ち煙突聳ゆ、况んや中間を横斷せる東海道鐵道は內外幾萬の旅客を呑吐する盛况を呈するに至ては、誰か其變遷の烈しきに驚かざらんや、而して此の建設に功ありし偉人は實に平沼九兵衛氏となす、其先は常陸鹿島の祠官、明暦年間保土谷に移輾し、世々醸酒及造麹を以て業とせしが、五世九兵衛氏天保十年の頃、沼地十餘萬坪を埋立て、我姓を以て新田に名く、其子九兵衛氏年二十、父の箕裘を襲ぎ断然志を決して新田に移住し、専ら埋立工事と鹽田經營に腐心せり、漠々たる不毛の田地と淡水多き海潮とには、幾度か其行動を沮害せしやを知らず、されど氏の勇敢なる決心は百折撓まず、拮据勉勵せしに、一縷の光明氏が前途の希望を照らせしものは則ち横濱市の發展なり、明治卅四年に至り終に市に編入されて市街地となり、又昔日の観を留めず、氏は自家經營苦辛の餘よく公共事業に奔走し、郡縣會の議員となり、又土木常設委員に推され、當路より金銀賞杯褒狀を受けしこと頗る多し、明治四十年三月六十四齢を以て歿せらる、嗣子亮三君繼で能く父祖の業を修め、名家の流を殞せず、聞く君は夙に慶應義塾を出で、少壯實業家として名聲嘖々たり、東陽銀行及戶部貯蓄銀行の重役に推され、公事に關しては市會議員及市學務委員の職にあり、叉獎兵義會副會長として坐ろに其職由する處あるを覺ゆ、」横浜成功名誉鑑
明治の横浜手彩色写真絵葉書
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