岡野公園 保土ヶ谷

岡野公園(常盤園)
保土ヶ谷町帷子
明治35年より農場として、明治42年10月から公園として整備を開始し、大正3年12月に一般開放された。総面積は二十万坪でテニスコート、野球のグラウンド、音楽堂、果樹園、養魚池、養鶏場、豚舎などがあり、遠足や運動会の会場としても利用された。岡野欣之助の所有。
明治の横浜手彩色写真絵葉書

「公園は地域廣く樹木花卉に富む。泉石配置宜しく俗塵を洗ふに屈強の處。」横浜遊覧職業案内

岡野町の開拓者 岡野欣之助「横濱市岡野町は實に保土ヶ谷町の素封家岡野欣之助君父祖三世の偉業によりて成立せしもの、區畫井然道路貫通し、神奈川縣農事試驗塲及縣立高等女學校及女子師範學校あり、試驗場は後保土ヶ谷町に移る、卅年耕地整理を施行し、面積廿五町六反現在戶數三百五十餘戶あり、此の偉業に對して君は其經路を語りて曰く、「往時は內海の一部にして蘆葦の間魚鱲の躍りしもの、天保四年予の祖父其所有に歸せしより直ちに開拓に着手す、同七年予が父遺業を受け、堤防を築き溝渠を通じ、嘉永年間田園二町六反鹽田三町を得、依て農家三戶を移住せしむ、安政六年幕命を奉じ平沼、新田間二橋を區劃し、新に一條の道路を設けたり、延長百九十七間なり、以て神横問の往來に便す、 外國奉行水野筑後守酒井隱岐守堀織部正其他幕吏一行の巡視を受く、後間部下總守も亦親く臨檢せり、是今の假定縣道に屬せるるもの、平沼及新田間二橋は實に當年の創設に係れり、昔は神奈川宮の町より横濱野毛に至る渡船ありしのみなれば、此の新道によりて多大の便益を感じ、漸次人家の相連なることとなりしが、後年高島町の新設により盛衰地を替へ、再び荒涼る一寒村と化し、民戸僅かに八戸を存するに過ぎず』と、如上は則ち君の先代勘四郎氏の事蹟にして、君は主として耕地整理を遂行し、一萬餘坪を献納して道路に當て、廿間に對する十六間宛の敷地を區割して私道を開き、新開地の通有なる錯雑紛糾を豫防し、小遊園地火防地等をも設くるの計畫なりといふ、大地主としての理想は最も其當を得たるものなるべし、君は従来より一切の政治運動等に干與せしことなく、明治三十年神奈川縣農工銀行の起るや選ばれて設立委員となり、十有餘年の間専務取締役の重任を帯びて頗る令聞あり、叉以て其着實なる好紳士たるを證すべきなり、」横浜成功名誉鑑

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