神奈川縣案内誌 |
棚橋煙火合資会社
花火
南太田町1860番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書
煙火製造業 棚橋通治「棚橋通治翁は美濃高須の土豪なり、資性放逸古武士の典型を存す、弓馬刀槍盡く其薀奧を究め殊に炮術は最得意とする所、翁の偉名內外に嘖々たるは蓋し之が爲めなり、明治卅四年米國聖路易博覽會の挙あり、翁時に年六十四、郵船コレア號に搭じて製品煙火を携へ遠く米國に航す、米人は巳に我絶技を知るも各國陳列館櫛比して殆んど空地なし、先年米人ペイン氏平山煙火を市俄古に打揚げ偶一人の死者と數名の負傷者を出せしにより日本煙火に鬼胎を抱きし際なるに、翁の製品は十吋十二吋の大弾なれば猶更許可すべくもあらず、翁奇策を案じ我天長節に際會せしを好機とし、祝砲に擬して百一發を打揚げんことを發言せり、博覧倉も終に拒むことを得ずして之れを許るせり、豪膽なる翁如何に其技に巧妙なるも元來危險物時に錯誤なきを保せず、 萬一過失あらんか直ちに割腹して世界各國の代表者に謝せんと决心せり、然るに昊天翁の微衷を諒し、無前の大彈中空に響き、一發は一發より妙に、千古未曾有の壯觀を現出するに至り、幾萬の觀客一齊に歡呼喝釆し、無數の新聞紙は競ふて之を轉載し、棚橋煙火の名世界を聳動するに至り、曩きに之を危ぶみし博覽會より金牌を擧げて贈與さるるの名譽を荷へり、爾來歐米各地の注文絕ゆる時なく日夜忙殺さるるの盛况を來せり、翁は明治初年橫濱に來り、二十二年斯業を始め、今や宮內省及陸軍省御用達として棚橋煙火の名海の內外に轟き、內外博覽會の金銀賞牌を受くる無數翁來年齢古稀、又英國博覽會に莅まんとするの决心あり、軀幹魁梧耳目猶壯、必ずや其目的を遂ぐるを得ん、希くば斯道の爲め幸に健全なれ、」横浜成功名誉鑑
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