實業之横濱 |
矢澤商店
茶箱茶袋並雑貨売込商
住吉町1丁目1番地 扇町1丁目23番地(186)
明治の横浜手彩色写真絵葉書
矢澤喜三郎 住吉町1丁目1番地「君は明治五年五月横濱市辨天町に生る安藤太郎氏の次男にして十一年矢澤家の養子となり依て矢澤の姓を冒せり幼にして商業に志あり壽學校を卒へたる後夜學或は私塾に通ひて外國語簿記漢文等を學ぶ二十七年養父歿せしかば君は未だ弱冠なるにも拘らず家督を相續して主人となり鋭意其家業たる茶箱茶袋經木眞田等の輸出業に従事せり抑も横濱に於て輸出入業を營むもの甚だ多しと雖も君の家は最も其古きるのにて先代の始めて業を營みしは實に慶應二年なりき當時の横濱は今日と全く其趣を異にし微々たる漁村なりしが貿易事業 の愈々発達するに連れてに今日の如き盛大を見るに至れり而して君の家は實に横濱と盛衰を同くして横濱の盛んになるに從ひて其店運も亦大に盛んになり先代の歿せしよりは君の一身に業務の凡てを擔ひて拮据勉勵怠る所無かりければ遂に横濱の今日の如くに君の家も亦今日の如き非常の盛大となり四五の支店を有するに至れり神戶横濱に斯業を営むもの數十軒ありと雖も君の右に出づるものなしと云ふ然れば社會の信用も甚だ厚く君にあらずんば能くする能はざるもの甚だ多きを以て現に紙製品組合評議委員經木眞田組合評議委員町内住吉會幹事衛生會議委員火之番組合委員等其の公共の爲めに盡瘁する所實に枚擧に逞あらず而して三十九年關東實業大會に輸出茶入用漆器を出品して二等賞を得たるは光榮と言はざる可からず君人と爲り謹直にして實行を尚び信用を得るを以て商業の要訣となし曾て貿易に大頓挫を來せし彼の不正茶事件の如きは君の常に慨嘆して措かざる處なりき君尚ほ春秋に富む前途の発展眞に人を驚かすものあるべし希くは自愛自重國家にして一臂の勞を惜しみ給ふ勿れ」京浜実業家名鑑
茶箱茶袋並雑貨賣込商 矢崎喜三郎 住吉町1丁目1番地「矢澤商店は茶箱茶袋並に雑貨賣込商として繁昌して居る、矢澤家は住吉町方面の奮家であつて其名を知られて居る、當主喜三郎君は辨天通安藤金大郎氏の二男で本年三十八歳、幼年矢澤家に入り二十二歳其養子となり業を続いだ、先代喜久蔵氏は十九歳の時、郷里東京府下南葛飾郡を去り出濱して、慶應元年居留地百四十三番に茶箱賣込商を開業、三年の後現所に轉じたものである、十餘年前病歿、遺言により當主を後継者と定めた、先代は叉慈善心に富み、賑恤救護等の事業や伊勢山其他神社仏閣に對し惜しまず金品を寄附したと云ふ、當主喜三郎君は先代の遺風を繼ぎ專ら質素を旨とし、嗜好は圍碁位で、只管店務に勵んで居られる、君今紙製品組合評識員經木眞田組合評議員等に擧げられて居る、」横浜成功名誉鑑
0 件のコメント:
コメントを投稿