横浜姓名録 |
守屋道
雑貨輸出入商
尾上町2丁目18番地 弁天通4丁目82番地(2056)
明治の横浜手彩色写真絵葉書
守屋道「横濱貿易の第一街たる辨天通の一角、屋上高く地球型の電燈燦爛たる洋風の商舗は之を守屋雑貨店と爲す、店主守屋道君は甲府の人、父祖以來幕府の世臣たり、文久元年を以て生る、幼にして頴悟、九歳にして算數巳に大人を撞着たらしめ、人呼んで神童と稱す、年十一英書を學び十六にして師範黌に入る、數學は天稟の才往々先覺者をして舌を捲かしむ、著書數部あり在學中の選に係る、業卒へて數校に歴任し、明治十六年横濱元街學校の教員となりしが、米國獨逸の國風を見併せて英書を研究し世界の大勢を知らんと欲し、輾じて山手百二十番英和學校日本學部教頭として教鞭を執り、洋人の状態を目睹し大に悟る所あり、断然志を決して輸出貿易に従事し外人の専横に當らんとし百方先づ實習の道を求むれども、教育者世務に迂なりとして用ゐるものなし、再び元町太田等の諸校に入り校長たり、當時日清戰役局を告げ陛下還御の報あり、學校團躰は君を推して奉送迎一般の設備に當らしむ、君細心翼々其の任を全ふし、此機會を劃して教育界を辭去せり、市教育會は君が多年の勤労に酬ゆる為に銀杯一個を贈與流せり、君是れより或は行商となり或 は仲次となり、具に辛酸を嘗め、明治卅一年一月に至り始めて直輸出の端緒を開けり、卅五年には清國天津に支店を設け、卅八年には率先大連に航し數多の貸屋を建築す、天津大連は君が支那貿易の根據地にして、其他歐米には多くの取引店を有し、店運日に進み旭日沖天の勢あり、君信を以て商業の秘訣となし、又後進の誘掖に務む、末弟節君をして西班牙語を學ばしめ、更らに南米に支店設置の計畫あり、四十年汽船を傭ひ北海木材を天津に輸出し、次年更らに満洲大豆及豆粕の輸入を企圖せしが、昊天此の新進商人に幸せず、其年胃癌に羅り病膏盲に入る、近藤國手執刀 の下に癌腫を抉出し萬死に一生を得たり、是れよら暫く閑地に身を置き健康の復奮を待て一大飛躍と試みんとす、 此後の發展や蓋し刮目して見るものあるや必せり、」横濱成功名誉鑑
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