貿易新報 |
谷川屋勘吉 山田勘吉
舶来砂糖引取商
境町2丁目36番地(701)
明治の横浜手彩色写真絵葉書
山田勘吉 境町2丁目36番地「山田勘吉君は江戸の人文久元年一月九日を以て生る先君を兵助氏と日ひ君は其長男なり兵助氏素と某會社員たり資性豪放貨殖を屑とせず施興を好み随って散じ毫も餘財を止めず蓋し當時の士風これをして然らしめたるものなり北堂腎にして淑徳の譽れ高し然れども蒲柳の質常に薬餌に親しみしが終に溘焉として長逝せり時に君年僅かに四歳先君快々として樂まず偶々二豎の犯す所となり其の翌年を以て赤黄泉の客となれり然り而して資財一空赤貧洗ふが如し五歳の嬰孫争でか往者の復還らざるを知らんや兄弟相擁して忽ち啼き忽ち笑ふ鳴呼人生固と惨事多し而も悲痛惨憺天下之に比すべきもの果して幾何かある葬に會するもの皆涙を呑んで鳴咽せざる莫し親戚相議して君を東京小船町一丁目神田太助氏に託す蓋し砂糖商にして主家の關係たるを以てなり居る事數年年齒稍々長じ世情漸く判するに及び父母の夙に早世し孤身煢然たるを思ひ悲哀自ら禁ぜず飲食喉を下らざるもの實に幾囘なるを知らず己にして飜然として自ら悟りて謂へらく去るものは追ふ可からず来るものは尚ほ向ふべし徒らに哀號悲慟する事に於て何の補ひか有らん如かず身を立て家を興し以て父母を顯さんにはと是に於て乎夙夜祇勵一に恢復を以て念となす尋で辨天通二丁目神田銀藏氏の許に移さる氏は太助氏の實弟にして砂糖商なればなり時に明治七年三月君又奮勵一倍を加へ人をして健康の如何を憂へしむるに至る居ること十二年に遂に少資を貯へ明治十八年四月三日を以て砂糖商店を現地に開く此の間に於ける君が辛勞は筆紙に盡す可からず爾来日を逐うて繁栄に赴き遂に今日に至りしを以て父母を追懐し祭祀展墓必ず禮を盡し楢ほ生 けるに事ふる如しと云ふ」京浜実業家名鑑
砂糖貿易商 山田勘吉 境町2丁目36番地「谷川屋商店山田吉君は幼にして孤なり、早く親戚なる神田太助氏に托せらる、神田氏は東京小船町の砂糖店なり、後横濱辨天通なる神田氏の令弟銀藏氏の店に移さる、悲惨の中に人となりたる君は、其の天性を砥礪するに他山の石を以てし、瑩々として光輝を發せしは實に明治十八年の頃なりき、其の後今の處に轉じ拮据營々少しも撓まず、孜々として地歩を固めて今日の盛況を見るに至る、君の如きは實に少年立志傳中に特筆して後昆に傳ふる價値なしとせず、世の紈袴者流父母の資をのみこれ仰ぎて酔生夢死するもの實に顔色なからむ、君は東京の人、文久元年一月を以て生る、」横浜成功名誉鑑
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