長岡薬種商店 尾上町

神奈川縣案内
長岡商店
輸出薬種天産物薄荷製造業
尾上町1丁目2番地(1180)
明治の横浜手彩色写真絵葉書

藥種天産物輸出薄荷製造業 長岡佐介「方士秦皇に説て曰く、東瀛三神山あり、以て不老不死の仙薬を求むべしと、荒唐の世我國をもて神仙の境となし、吳越より歸化するもの多し、紀州奈智の如きは蓋しそれならんか、長岡佐介君は大阪市の人なり、先代より藥種貿易を營む、現代に至りて香港に支店を置き、上海及南淸地方と取引せしも業務振はず、依て更らに擴張して廿二年當地に貿易店を開き、自家の商業を專心固守して、藥種及天産乾物を海外に輸出し、又薄荷製造業に從事し、萬難を排して發展に腐心せしが、曾て日清戰爭の當時、人参の市價暴落せしを見て奇貨措くべからずと爲し、内地産品を一手に買占め、時機を見て賣出せしに、書策誤まらず巨利を博せしことあり、之れ今日の隆運を爲せし素因なり、目下遠州濱松に出張所を設け神戸に支店あり、商勢隆々として起り 終に斯業界の泰斗となれり、君志想堅實苦辛慘澹の結果、今や成功の彼岸に達し、男子の本分已に盡くせり、橫浜本店の經營は長男鹿藏君に委し、之を助くるに柳田忠一氏を以てし、自から大阪に住し專ら神戸支店の監督を爲す傍ら、身を塵外に委ねて風月に老ひんものと、去る三十年鄕里紀州南部町に歸省し、故老に勸められて海上半里を隔つる鹿島と云ふに渡りしが、同島は風光絶倫古來稱して神仙の郷と傳ふ、君鄕黨の爲めに此島を開拓して其遊樂地たらしめんと、榛莽を拓き岩石を切りて一小天地を造くり、船玉神社と那智の觀音を勸請奉祀し、鹿島俱樂部、額堂、茶呑所、三條庵、六個の四阿亭等を新築し、遊覽地たり公園たるの設備全く具りたれば、全島を擧げて南部町に寄付し、自ら監督者となりて同島の遊仙となれり、四阿亭に標榜して曰く、比島に來る者は營利の業をなすべからず、喧嘩口論賭博は嚴禁の事、難破船は觀音堂船玉神社の御供米を使用するも妨げなし、器具の用意あり、是叉使用隨意たるべしと、長岡佐介君功成名遂、赤松子に隨ひし子房の行にも優りて其高潔名狀すべからず、秦皇をして聞かしめば九鼎大呂を棄てても此の壺中の天地に老いんと願ひしならん、」横浜成功名誉鑑

實業之横濱

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