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黒田虎太郎
歯科医師
山下町87番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書
最卓越せる歯科医 黒田虎太郎「施術の熟練と技巧の巧妙如何は何人にも直ちに判断し得らるる歯科医中に於て、特に出色なる黒田國手は長野県の人、初め開成學校の生徒なりしが明治十年英國に渡航し歯科醫術を挙ぶこと五年、サージョンデンチストの稱號を得て帰朝す時に明治十四年なり由来歯科は米園を以て最も進歩せりと認めらる、更らに米醫に就きて実習数年、 十六年八月帝國政府の開業免状を受け、其翌年始めて辨天通に開業す、用意周密なる技術は一たび治を乞ひし患者の等しく首肯する所となり、忽ちにして診察所の狭隘を感ずるに至り、明治卅三年山下町八十七番地に移り、卅九年更らに現住所に転ず、國手は其学歴因となりて患者は自然外人に多く、嶄新の療法と獨得の手腕は到底他の模倣し能はざる處なり、日露戦後國手は消夏を兼ねて露領浦港に渡航せしが、露国将校の来りて治を乞ふもの連続絶えず、為めは或は高等探偵ならんかを疑はれ帰朝を急ぐの止むなきに至れり、此行僅かに短日月に過ぎざれども日本歯科醫の真価は海の一方に顕彰し、露國皇族及高級将校及び獨逸大使館員等は特に横濱に来りて國手の門を叩くに至れり、今日國手の室を飾れる絢爛たる銀杯は實に露皇族の一人が感謝の紀念として贈輿せしもの、又以て家門の誇となすに足る、國手頗る骨董癖あり、又鑑識眼に富み、稀代の古器を珍臓して唯一の楽とせり、國手本年齢正に五十、世に傳ふ其手腕や益々神に入ると、」横浜成功名誉鑑
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