横浜姓名録 |
田邊屋穂苅
薪炭石炭商
元町2丁目100番地
明治の横浜写真手彩色絵葉書
薪炭及石炭商 穂刈永三「田邊屋薪炭店は開港初年の頃より當地に薪炭を販賣せる奮家にして、代官坂邊の草分とも云ふべき家柄なり、現主穂刈永三君明治十年四月を以て生る、幼少にして孤なり、弱年より父租の業を繼承し勤勉怠らず、明治廿五年頃より更に石炭販賣業を兼ね、専ら内外人間に販路を擴張して益々隆盛に向ひしが、明治三十年補充兵として召集され三十三年満期除隊となりしが、日露難を構へて東洋の風雲急を告ぐるに當り、微されて横須賀要塞に編入せられ、三十八年五月韓國に出征し翠年三月無事凱旋せらる、國に蓋くして忠なりし君は叉其家業に於ても決して疎ならず、爾来奮闘の結果日一日に現はれ、今や同業者間に推重さる、の地位を奪取さるるに至しは感服の外なし、前途多望希くは加餐せられよ、」横浜成功名誉鑑
穂刈永三 元町2丁目100番地「人生幼にして親に生き立たるるより不幸なるはなし然も此不遇辛酸を嘗めて克く家聲を失墜せざるのみか益々業務を拡張旺盛ならしめたる君は明治十年四月一日を以て現所に生れたり父を永三氏と云ひ其長子にして少時名を文吉と稱し家督相續後今の名に改めたり代々薪炭販賣を以て業とし頗る舊家にして連綿數代に及び土地の人望と信用と頗る厚し君弱年にして既に家業に黽勉し父の位地に座って東奔西走日夕勤めて倦ます辛苦經營具に艱難を甞む二十五年従来の職に兼ねるに石炭販賣業を以てす其鋭意専念忠實なる人の嘉稱するところとなる斯の如く業務発展し来るに當って塵務のこと多く義兄に委託し君自から進んで販路携張の衝に就く而して商勢日に月に昌なり三十年補充兵として集せられ後現役に編入せらるゝに逢ふ己にして期満ち三十三年十月除隊となり帰還に次いで日露戦端を生ずるや召集令を蒙り出で横須賀要塞部に編入せられ越えて三十八年五月朝鮮に派遣せられ永江灣守備の命を受け熱心軍務に服し漸くにして戦役終るや三十九年三月横須賀に再び帰還し其年の三月を以て除隊家に帰ることを得たり君今や家に在りて一心職業の爲めに努力して敢て他を顧みず頓に商務に新なる活氣と飛躍とは顯はれ始めぬ君にして今の心を以て心となし將來渝ることなくんば遂には斯業家屈指の巨商たること決して難きにあらざる事を信んぜずんばあらず鳴呼君が如きは一個良市民にして有事の日は銃剣を執って王事に鞍當し平和の恢復せらるるに至っては本業に復帰して牙籌を執るや着實真摯にして其前途は實に多望なり其の敏腕を振ふべきの地又廣し吾人は君の益々自重加餐して大成を期せられん事を國家の爲めに希望すなり」京浜実業家名鑑
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