横浜市商工案内 |
江戸清 高橋清七
豚肉加工
山下町192番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書
高橋清七「世の開明文化に進むに従って人は菜食を捨て肉食に赴き肉類の需用頓に多からんとするの時に當り決然郷關を出で、日本第一の貿易場横濱に至り以て養豚事業を經營せる高橋清七君の如きは又一隻の炯眼時勢を看破し社會の趨勢を洞察せるものと謂ふべし君は明治八年十一月千葉縣千葉郡檢見川町に生れ父を清八氏と呼び君は其の長男たり君幼にして頴敏聰明學を好み業に熱心にして些の惰心なし是れを以て郷黨の古老皆君が前途に嘱望する所ありしが果然今日の成功を見るを得たり家は代々荒物商を以て業とせしを以て君夙に實業に志し年歯漸く十四歳即ち明治二十一年より地方商人十数人を集め是れをして各地の玉子の買集めをなさしめ其の漸くにして數個の荷を成すや是れを送りて東京に出て日本橋附近に失れを賣却し歸途必ず荒物類を仕入れて家業を輔くるを常としき其の長じて明治二十八年となるや年来の抱負希望たる養豚業に従事せんと欲し決然郷を出でゝ横濱に来り東奔西走其の地をトして事業を經營せんとする時に當り同市南太田町なる養豚家中村次郎七氏の其宅地を譲らんとするを買受けて翌年即ち二十九年十一月初めて養豚業を開き同時に山下町に豚販賣店を設け尚ほ養豚の外千葉ハムなるものを製造販賣し營々として其の業を勤め汲々として販路の拡張を計りけるが今や家運大に榮えて養豚及び豚肉商として市内有数の大商店たるに至れり更に明治三十二三年頃より横須賀海陸軍御用を命せられ益々忠實熱心殆ど献身的に用命を勤むるより當局の評判頗る良好なりと云ふ君亦最近鎌倉ハム製造會社なるものを創立せんと欲して是が発起人となり東奔西走有志の門を敲きつつありと其の成功期して俟つべきなり」京浜実業家名鑑
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