高島屋飯田横浜貿易店 山下町

高島屋飯田横浜貿易店
絹物刺繍品輸出
山下町81番(141)
家号は出身地の江州(近江滋賀)高島から。本店は京都にあり横浜は貿易支店で主に刺繍品の輸出をしていた。建物は遠藤於菟の設計により明治40年(1907)に竣工した。翌年の米国艦隊来航時には艦隊がマニラに停泊している時に提督以下乗組員に広告を送付したり、一割引での販売によって横浜の商店で一番の売上をあげたといわれている。絹製日本衣物、刺繍の洋服地、ブラウス、靴下、手巾、枕皮地、支那服、琥珀、 縮緬、羽二重がよく売れた。
明治の横浜手彩色写真絵葉書

絹物刺繍品輸出 高島屋貿易店「舊居留地の大通に於て錦繡綢緞を陳列し、彩光陸離として行人の步を停むるもの是れを高島屋絹物店となす、本店は京都鳥丸通にあり、吳服店を京都、大阪、東京、神戶に置き、貿易店を京都及び東京、大阪、 橫濱、神戶、天津、里昂、倫敦に設く、我國屈指の絹物商店にして、特に刺繡は同店獨得の妙を以て遠く海外に轟く、 店主飯田新七君四世の祖江州高島より出で、其鄉名を家號として連綿現代に及ぶ、現代は英達の質夙に海外貿易を企圖して業務を擴張し、本店直接監督の下に刺繡部を設け研究所を置きて技工を養成し、専ら外國に向つて本邦美術の真価を発揮するに勉む、内外國博覧會に出品して金銀賞牌を受くる數百、實業上の功労を嘉みせられ、三十五年動六等に叙せらる、横濱支店は直輸及卸小賣の二部に分ちて専ら貿易を営めり、實に帝園刺繍界に於ける巨擘とす(四十二年十二月組織を幾更して高島屋飯田合名會社と改称さる)」横浜成功名誉鑑

弁天通4丁目66番地 高島屋 飯田新七「一片好く千金に價する織物繍物は常に本舗に依りて世界に介せらる漫遊の外客踵を接して至り店員忙殺せられんとす其盛況知るべきなり」京浜名家総覧職業

「同社は有名なる京都高島屋にして絹物の直輸出を営み又卸小売部あり呉服店は京都大阪東京及神戸に置き交易店は横浜の外京都東京大阪に置き又海外には里昂倫敦天津に支店を設け取引店は世界至る處あらざるなく本邦有数の商店として其名内外に知らる。」現代之横浜

「高島屋の横浜貿易店 有名なる京都高島屋は、今回当市山下町八十一番館元 丁抹領事館跡に新に貿易店を設置し専ら海外向絹綿織物各種刺繍天 鷲級等の美術製品類卸小売を開始したるが其飾窓(ショウ、ウイント)内には窈発たる日本の少女が最も優美華麗なる日本衣服を着けてしとやかに直立せるありて一見店前を往来する者の注意を惹き店内は中廊下を通じ其入口の衝き当りには精功なる絹張屏風を繞せるあり左の一室は絹物室となりて有らゆる絹織物を陳列し其隣室は刺繍を施せる衣裳と純粋の日本反物との陳列場にして右側の一室は木綿リンネル其他小間物を陳列し次室には寝台掛け卓子掛け窓懸け天鷲級友仙類を陳ね就中横浜にて従来見ることを得ざる大巾の窓懸け類及び日本第一の画工の意匠に成りたりといふ天鷲級友仙は最も人目を惹ひて日本の織物王なる高島屋の優所を発揮せり。二階を上り右側の二間には刺繍を施せる絹張屏風が最も巧に陳列せられ其左側の一室は額掛物等の陳列室に 供せられ其次なる一室は御客爲の見本室となりて一切の見本類を備へ又其右側の中央室は暗室となりて夜間用衣裳を購求せんとするものの爲め其色彩の電気燈に映する工合を知らしむる設備あるなど最も斬新の方法を用ゐ其他階下の店後には長方形なる休憩室ありて一斉に籐製の卓子椅子を配置し且つ敷十の鉢植を列せる用意周到なりといふべし、聞く所に依れば同店商品には餘り安物なく其価格は概ね二十円以上、最も高価のものに至っては三四千円以上のものありいふ、尚弁天通四丁目なる飯田輸出店も建築落成次第茲に合併する筈なりと」実業之横浜 

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