牛肉商
山下町185番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書
飯田久松 山下町185番地「磐根錯節に遭はずんば刀剣の利鈍を試めしがたし厳寒霜雪を忍ぶにあらざれば千紫萬紅の春に逢ふこと能はざるべし人の名を成し業を興す必ず尋常人の企て及ぶ能はざる不屈不撓の精神と忍耐誠實の性行なかるべからざるなり飯田久松君の如き亦以て非凡なる實業家として社會に表彰するに足らん君は慶應三年十一月十三日富山縣下新川郡舟見村に生る父を西尾義三郎氏と云ひ君は其の長男なり家代々農を以て業とす幼にして穎敏聰悟學を好み稍長じて郷里の光被小學校に入りて普通學を修め後明治十五年より同蘆埼小學校の教員を奉職して諄々として育英の業に従ふこと五年學益々進み信用愈々加はりしが明治十九年九月東京に出でて麹町區内幸町の紹成書院に入り専ら漢學を修め翌年退學するや初めて横濱に赴き今の郵船會社長なる近藤廉平氏の書生として同家に仕ふ居ること殆どニケ年傍ら外國人某に就きて鋭意熱心英語を研究す後ち牛肉商飯田家の書記となり忠實精勵主家に盡し敏腕辣手山爲す庶務を解決して些かの遺憾なし殊に君が事を執るや寝食を忘れ寒暑を厭はず殆ど全力を注いで是に當れる氣概は大に主人の信用を受け遂に同家の相續者たるの幸運を得たり明治二十年十二月横濱屠獣合資會社の創立せらるるや君評議員に選ばれ現に其の職にあり明治三十四年二月横濱氷業株式會社の創立せらるゝや君又監査役に推され後ち更に昇進して副社長に選ばれ三十九年四月同社の合名會社と改むるに至りて君は其の業務膽當社員となり拮据經營能く其の任を全ふす君人と為り慈善の心深く公共の念熾んにして赤十字社々員としては頗る同社に貢献し慈善團體に加入しては貧民救助に助力する等其の徳行一々屈指に遑あらず」京浜実業家名鑑
牛羊豚肉販賣問屋 飯田久松「山下町に古くより肉類販賣の一店舗があった、明治廿一年頃飯田久松君は其店員として雇はれた、數年の後に店主は或業務の為に失敗して、止むを得ず其店舗を君に譲つたは卅一年の頃である、それよりは自己の經營に属し、一層の勉励を加へ、既に傾かんとする店を再興せしのみならず益々内外船舶及洋人に向て販路を擴張したから、今日に至りては十數人の店員を使役しても足らざるの繁忙を見るやうになった、君は素と一介の書生で、明治十八年遊學の爲め上京したが、中途窮乏の爲め退學して横濱に来り、一店員から現在の盛況を贏ち得たとすれば、尋常一様の人ではない、 同志と共に屠場會社を起し其取締役社長に推さる君は岡山縣舟見町の出身で、慶應三年の生れである、」横浜成功名誉鑑
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