金森時計店 太田町

神奈川縣案内
金森時計店
時計店
太田町4丁目72、73番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書

「創業者は金森桝吉氏、明治二年に境町二丁目に開店したのであるが後に現在の處へ移って、唐物、鍵巻時計、八角ボンボン時計等を賣り出し他のであるが、其當時太田町を通じて西洋建の家は會田、松村の閬店と當店とであった。原品はレッツ商會、五十一番ワーゲン商會、エス、アイザック前進たりしアール、アイザック商會、ブルール兄弟商會、廿八番アメリカ貿易会社等から仕入他ので、新九十番の輸入時計は廿四年間一手販賣をしてゐる。廿年前に全國保瞼時計販賣組合を神戸の坪井氏と協議の上設立し、賈客に對して保瞼證を交付し賣渡後一ケ年間の中に自然に狂火を生じたる場合には組合員共通にて無代で修繕する組織にし、其他同業者の便利を計り金に極印を爲すことを主張し實行することにしたのである横浜時計組合組合長に選ばれ先年辭職の際に銀盃を贈呈された卅七年に合資組織に改め、美麗なる置時計は米國より直輸入を爲し内地製、外國製を問はず全國へ卸をして伊勢以東は得意多く當店營業の八割はそれが占めてゐた。四五年以前からは小賈に力を灌ぎ店の構造も改築して附属品一切を販賣するやうになり、毎年十二月に福引賣出しをしてゐる。」実業之横浜

時計商組合長 金森桝吉君「太田町通を通行するもの、富士山型に積上げたる金銀時計の陳列棚が眼に入るであらふ、是れが金森枡吉君の商店である、内地人の時計販賣店としては最も古くて且信用のある商ひ振りは、大に購客の滿足する所だ、先づ器械の保險證は一ヶ年間自然の破損は無料修繕の旨を記し、それから金製品は自店改の刻印を附することを同業者に勸めて一致を得たのは確かに革新であらふ、君は慶應年度に伊勢の桑名郡長島村から橫濱に來て、アペックエンドコロン商會といふのに這入って大に館主に用ゐられた、明治二年に境町で時計や西洋雜貨の小賣店を開いて通勤して居られたが、其後商館を辭し明治廿二年に今の處に移轉して、時計及貴金屬專門の商賣を始たので、卅七年には合資組織に改められた、ワーグン、アールアイザック、レッツ、プルウル、アメリカ貿易及び新九十番商會等より輸入の時計を一手に又は特約販賣され、置時計は米國から直輸入して全國に卸賣して中々手廣きやり方である、永く時計商組合長の職にありて盡力されたから、組合員は君を德として辭任の際には銀杯を贈與した、其後又再撰されて今も尙其任にあるといふ、いかに君が同業間に推重さるるかゞ分るであらふ、君は本年六十四歳である、」横浜成功名誉鑑

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