陶磁器製造
南太田町1631番地(1786)
明治の横浜手彩色写真絵葉書
眞葛焼始祖 宮川香山「宮川香山翁の家は世々京都に住し其先は江州淺井家の末裔にして同國宮川村の産なり、翁三世の祖始めて陶業を營み精巧凡に超へ名聲雲上に達す、眞葛香山の雅號は宮家より拜受せし所なりといふ、翁幼より學を好み詩歌書畵盡く薀奧を極め、其陶磁器に描寫せる畵は先師大雅堂の風致躍如たるを覺ふ、横浜開港に際し本邦の眞美術を外國に發揮するの機至れりとし、急遽旅裝を整へ 一簑一鞋道を伊豆に取る、蓋し人あり豆州に陶土を發見せしと告ぐるによる、滃探檢するも用ゆべきなし、去て橫浜太田に來り●を富士見臺下に停め、日に坭埴を捻して製造を開始す、時に明治二年なり、釉藥の色彩描畵の雅趣决して他の模倣し難き所、外人一見其妙技に驚き値を論ぜずして購求するに至る、明治二十年綠綬章を下賜せられ、三十年十二月帝室技藝員を命ぜらる、其他内外各地の共進會博覽會に出品して金銀賞牌を受けし數枚擧に遑あらず、各美術方面の審査員を命ぜられしこと叉數回、作物に對しては歐米人の本邦陶器を知ると知らざるとに論なく眞葛の名を解せざる殆んど稀なり、甞て米國費府萬國博覽會に出品せる大花瓶は天下の絶品として好評を博し、ボストン大學は巨金を投じて參考品に備へ付けんとし、某富豪は大學の値を倍して購はんとし、端なくもこゝに顧客の競爭を惹起せり、香山翁心に决する處あり、鐵槌を執て花瓶に加へ、粉碎し盡くして曰く、日本の眞美術は黄金もて左右し得らるべきものにあらずと、此報一たび傳るや香山眞葛燒の名更らに喧しらを加ふ」横浜成功名誉鑑
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