大勢屋旅館 本町

神奈川縣案内
大せいや
旅館
本町6丁目82番地(953)
明治の横浜手彩色写真絵葉書

山本卯吉 本町6丁目82番地「三階四階の高樓を有して料理清新待遇丁嚀以て内外旅客の間に好評噴々たるものは横濱第一の旅館「大せいや」にあらずや館主山本卯吉君は抑も什麼の人ぞ安政二年十月十日を以て三重縣三重郡西町に生る父を宗八氏と呼び君は其の長男なり家は代々米穀仲買を以て業とす明治六年八月始めて出京し蠣殻町にて米穀の取引をなさんと欲せしかど東京の事情を知らざりしを以て已むなく京橋區傳馬町の知人の家に食客となり静に市場の景況に注目し又機會の到来を待つこと二年卽ち明治八年より蠣殻町に出で盛に米穀取引仲買に従事し時に一攫千金の利を得しことありと雖も遂に失敗又起つ能はずなりぬ依って明治十一年郷里に帰りて間もなく家督を相續し資金を繼承せしを以て明治十三年再び東京に出でて金圓の餘裕あるに任せ盛に投機事業に従事せしが失敗叉失敗明治十五年頃迄には赤裸々たる身となりしを以て今年五月横濱に出で本町六丁目なる上州屋に入りて店員となり奮勵勤勉殆ど寝食を忘れ敏捷活潑以て堆積の業務を解決せしかば大に主人の信頼を得其の間亦往年一攫千金の空想を夢みしを後悔して成功の術は一に勤儉貯蓄にあるを看破し只管節儉に努めしを以て明治二十一年十月には獨立自營本町五丁目に旅館 を開業し屋號を大せいや卯吉とし一意専心懇篤忠實を旨と叮嚀親切を主として営業しければ家運益々榮え信用愈々博まりて明治三十四年四月には現所に廣大なる家屋を新築し今や歐米各國汽船乗客取扱問屋軍用旅舍として金港第一流の大旅館たるに至れり細流涓々少なれども終に江河をなすの語眞に然るを見る然れども天性の嗜好は如何ともすべからざるか最近米穀取引場裏に馳驅して輸贏を決しつつありと吾人其の成功を祈る」京浜実業家名鑑

大せい屋「停車場を出て辨天橋を渡ると本町六丁目で、旅館としては大勢屋と云ふのがある、新築三階の建物で一見其の大旅舘たる事が分かる、中に這入って見ると更に其の構造の美なるに驚く、客室の構造から装飾萬端は數奇を凝らしたもの、夜具器物の末に至るまで一切完備せざるはなしで而も宿料は最も低廉である、奴婢雇人の親切にも依るが滊船の乗客抔は至極の便を得らるるので其繁昌は一通りでない」現在の横濱

大勢屋 山本卯吉「三層の大厦は優に多數旅客の収容をなすべく室内の設備又逆旅の勞を憩はしむるに足る本店は重に米國加奈陀布哇等へ往復する旅客を専門とす」京浜名家総覧


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