横浜社会辞彙 |
なると
会席料理
花咲町6丁目59番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書
料理店鳴門 大空タマ子「巨大なる瓦斯局のパノラマを展望し、紅葉坂の幽邃なる丘陵を側にし、閑雅なるところ三百餘坪の一敷地に藩酒なる小亭幾許を配して、花晨月夕雅客の清臨を俟つものを花咲町の鳴門料理店とす、先主人大鳴門開は力士として夙に名あり、藝名を全国に馳せたりしが、鑑みるところあり明治三十二年現所に料理店を開き、退隠して八角灘右衛門と稱し年寄となる、亭の名を鳴門と命ず、藝名の大の字を節して溫雅なる名となしたるなり、十數の座敷數寄を凝らし、數十坪の庭園には山水の佳景を配置して、塵寰たる市井に一小仙地を作りたるに似たり、客に進むるに佳肴あり、配膳の割烹鹽梅の宜しきを得て隆盛今日に及ぶ、八角關昨年死去の後は、內室大空タマ子刀自志を繼いで采配を振ひつつあり、鳥料理は開業以来特色として、名高し、横濱名物誌に軟々俳仙の詠あり、」横浜成功名誉鑑
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