日本郵船横浜支店 海岸通

日本郵船横浜支店
海運
海岸通3丁目14番地
日本の海運業を独占していた三菱に対して政府や三井などが明治15年(1882)共同運輸会社を設立した。その結果激しい価格競争が起き、共倒れによる衰退を恐れた政府が両社の合併を仲介し明治18年(1885)対等合併による日本郵船を設立させた。設計はイギリス人のダイアック、建設は清水組で明治21年(1888)に新築竣工した。
明治の横浜手彩色写真絵葉書

日本と世界とを聯絡する大會社にして。資本金二千二百萬圓内外航路に従事する船舶八拾餘艘噸数三十五萬餘噸。家屋は煉瓦造二階建五百餘坪六部に分ち。使用人の数は萬を以て數ふ。本社は東京に置き此所は支店の名義なり。」横浜商業遊覧案内

海運界の巨人 日本郵船株式会社横濱支店「本社は明治十八年十月、三菱汽船會社と共同
運輸會社との合同に成りたるものなり、創立當時の資本金は一千一百萬圓にして、所有汽船五十八艘總噸數六萬四千餘噸なりしに、漸次事業の發展に伴ひ、現今資本金二千二百萬圓、諸積立金二千萬圓に達し、所有汽船、總噸數卅五萬餘噸にして、此中新造の巨船六艘及依托船七艘あり、會社の規模の宏大なる之を歐米各國の大海運會社に比するに毫も遜色なし、殊に其營業の世界的なる點に至ては東洋第一といふべきなり、既往に遡るに我國內地の交通機關不便なる時代に、其回航によりて運輸梗塞の嘆を除き、叉我國貿易の幼稚なる時代に當り、率先海外に航路を開きて輸出の發達を助け、或は日淸日露の戰役及び北淸事變等、國家有事に際しては船舶海員を擧げて軍用に供しその國家に負ふ所少なからざるは世人の既に認むる所なり、創立當時の航路は概ね內地沿海にして、海外線は橫濱上海間長崎浦鹽間神戸仁川間の三線に過ぎざりしが、明治廿五年に至り清國牛莊及天津に航路を延長したる外著しき發達を見ざりしが、翌年十月始めて孟買航路を開き、日淸戰役後海外航路の擴張を計り、資本金を增加し汽船を新造し、遂に歐羅巴亜米利加濠洲の三大航路を開くに至れり、時に廿九年六月なり、米國航路には大北鐵道會社及び北太平洋鐵道會社との聯絡ありて、米大陸を橫斷し大西洋を越へて歐洲大陸に達するを得べし、又世界一週の切符を發行して週遊旅客の便宜を計れり、而して船舶の堅牢にして客室の美麗なると待遇の懇切なる、之れを他の船舶に比して優に一頭地を拔くの慨あり、殊に歐米濠の三航路は最新式の巨船を用ゐ、速力は固より快捷、船内の設備缺くるなく、船客をして身の覊旅にあるを忘れしむ、宜なり歐米文明人の先を爭ふて搭乘を希ふことや、重役としては社長に近藤康平氏副社長に加藤正義氏を戴き、専務取締役は岩永省一氏、取締役として園田孝吉、淺田正文、莊田平五郎、澁澤男爵、小川讐の諸氏、監査役には有島武飯田巽の諸氏等鏘々たる實業界の名士あり、使用人員三千五百餘名高等海員別に九百餘名の多きに達す、本社は東京に在り、橫濱以下内外各地の支店十二其他内外樞要地には代理店あり橫濱支店は明治十八年十月の設立にして、現時の支店長永井久一郎君は老練にして名望あり、會社第一の事務家を以て目せらる、禾原と號し詩文の嗜み深しと云ふ、」横濱成功名誉鑑

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