カタナヤ(柴田屋)
刀剣甲冑武具骨董商
弁天通2丁目27番地
明治10年(1877)住吉町支店を開店、その後弁天通27番地に移転した
明治の横浜手彩色写真絵葉書
刀劍甲胄及武具骨董商 龜ヶ谷象次郎「開港當時にありて政府が刀劍類輸出に慎重の態度を取りしとは非常にして、種々なる取締規則を設け極力防止に苦辛せしが、外人等は種々なる名目の下に抗議を申込み、終に明治元年七月神奈川縣裁判所より横浜町役塲へ指令ありて、本町一丁目中澤屋五兵衛以下四名を選らび公然渡世を許可することとせり、されど在品出入の檢査頗る嚴重にして、現時に於ける銃器賣買等の比にあらざりしといふ、龜谷兼次郎君は代々東京日蔭町に住して刀劍商の老舗なり、明治初年彼の嚴重なる規則時代より横浜に往復して外人と取引せしが、店舗を開きしは明治十年一月よりなり、兵器の進歩は日に月に新を加へ、一騎打の迷夢は今や開明國人腦裏より洗滌されたれども、數十年前の昔は實に武士の魂と稱し、上作の銘刀一たび外人の手に移らば、國力の消長に關するものと爲したるは無理ならぬことなるべし、龜ヶ谷君の談によれば、外人の嗜好は决して我國人の思ふ所と異なり、錆た正宗は光る菜切庖丁の優れるに若かず、只裝飾の美にして目眩ゆき作りを旨とし、中身の如きは問ふもの稀なれば、寧ろ𣏌憂に過ぎざりしなりとは左もありなむ、現今は更らに骨董品の一として賣れ行くに過ぎざれば、刀室にも七寳セルロイド等多く用ゐらる、君は刀劍の外に武器武具甲冑類等の摸擬古物も鬻き居れり、幼少より其家に人となりて鑑識の明も亦凡に勝ぐれ、十四歳の頃單獨住吉町一丁目に店舗を開き、其後現住所に移轉して今日に及ぶ、本年四十六歳にして溫厚堅實の長者なり、」横濱成功名誉鑑
弁天通4丁目71番地(支店か?移転したか)
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