田辺洋傘店 相生町

神奈川縣案内誌
酒井屋田邊商店
洋傘店
相生町1丁目25番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書

酒井屋洋傘店 田邊民吉「君は群馬縣の人、十四歳より馬車道酒井屋に入りて此の商法を實習し、明治三十九年に至りて主家の屋號を襲用し開店されしなり、洋傘は破損し易きものなれば各店とも保険附の名稱を付し居るも、之れを實行するに當りて種々口實を設くるもの多きも、君の店に限りては全く正直に修理を加へて顧客の満足を買ひつつあるは確かに一特色とすべく、良商は客を欺かずといふ文明的商法に適へる者といふべし、近来ライト傘の新案登録専賣を得たり、貴婦人用洋傘に緻密なる刺繍を施し、各種の寳石を装填したるもの光輝爆然として其色彩の美なる言語に絶す、此他内外人の嗜好に投じたる新意匠のもの頗る多く、常に流行界の覇王として稱せらるに至る、宜なり創業日猶浅くして巳に同業者を凌駕し、商務の日に駸々乎として起れるや、」横浜成功名誉鑑

内外の洋傘会に重きを爲して居るのは當地関内の二三洋傘店であって、中にも輸出の七分を一手で引受けて居るのは田邊商店である。屋号を酒井屋と云ふ。馬車道の酒井洋傘店から去る卅九年に分れたからである。輓近よく保険附直引無しを標榜する店があるが多くは上っ面だけで方便に過ぎない有様で是を實行する家は稀であるが同店は確實に實行して缺釐も違へるようなことが無い。それが一例は曾て某誌に記載してあったことだが、名古屋の人が同店で洋傘を求めたが、其後間も無く損所が出来たので之が修繕を頼んで来たから保険附を實行して無代で直したので、其名古屋人は大に驚き那 麼事をしたならば故意に毀して来るものがあって商賣になるまいと云った處が、同店では保険を附けてゐる以上責任があるから是を完ふしたので、誰が又自分の所持品を態々毀して来るものは無いからそれは杞憂に過ぎないと云ったさうだ。数ある中には一本や二本は鐡條や柄が具合の悪いものも出来ることであるから無代で修繕して其實を上げてゐるのであって、鳥渡出来さうで出来ないことだ。店で小売の外には東京の白木屋呉服店大阪の高島屋、十合両呉服店其他の同業者に卸をして外国へは米国に中物支那に安物を輸出してゐる。一昨年東都に開催された東京博覧会に出品して紀念三等賞牌を受領した。それから同店では甲州甲斐絹を使はないがこれは褪色が激しい爲であって甲斐絹は總て桐生産を用ひてゐる。で、今回褪色縮み等の非難あらざる様美術的に改良工夫された実用新案の《ライト洋傘》と云ふ特許品を製造發賣した、種々なる刺繍の模様の中へ色々な寳石が入ってゐるので、一度これを開けば燦然たるもので、高尚で無意気で無く意気で下卑てゐない、實に婦人持ちとしては是に越すものはあるまい、それで八九圓といふ廉價なのである。本年流行の魁は先づこれであらう。流行と云へば昨年は刺繍の入った縁へミシンの無いのが歓迎されたが、本年は縁にミシンを入れたもので、矢張色はカツ色お納戸が流行し二十一吋形が持て囃されさうである。」実業之横浜

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