賑座
横浜の劇場
賑町1丁目2番地
明治13年(1880)開場、明治32年(1899)の関外大火により焼失したが明治33年(1900)に再建した。大衆に寄った演目を低価格で提供し輸出用ハンカチーフの内職に従事する女性を常連客としたことから賑座の大衆に寄った芝居はハンケチ芝居と呼ばれた。
明治の横浜手彩色写真絵葉書
賑座々主 小林清吉「往時伊勢佐木町通のやゝ殷盛に赴くや、蔦座、港座、佐野松座、勇座と對抗して賑町通りに新劇場を設け、爾來廿六年の久しき當時の諸座の興廢の中に處して、市の繁盛と共に屈指の劇場として現存し猶今に興行を爲しつゝある賑座は小林氏の經營に成る初代小林彥太郎氏豊前國小倉に生れ(天保六年)壯年にして江戸に出て、身を實業界に投じ、勉勤事に當り、明治初年横浜に來り米商を營み、後太田町一丁目に下駄商を開き、轉じて質商となり、實直好く利を收めて成功の緒を開きしが、會々三四の興行をなして不幸失敗に終りしを歎 し、こゝに挽回策を致さんと、明治十七年現今の塲所へ一劇場を新設し、町名に因なみ賑座の名を冠し、同十月始めて開場し、鶴之助、照藏、千鳥一座の俳優を聘し、一番目『酒井の太鼓』二番目『小三金五郎』の狂言に舞臺開きを行ひ、其後十八年春には場內を擴張して、故芝翫、時藏(今の歌六)我當(今の仁左衛門)先代我當の一座にて、一番目『川中島』中幕『吃叉』二番目『鏡山』の狂言を出したるが、不入にて失敗し、之が動機となり、以後横浜の地に向くべき一流の興行法の下に、年中休みなしの大勉强に、一座も座付としてより、爾來着々と効を收め、明治廿一年五十八歳にて長逝したり、當主淸吉君は元治元年六月横浜に生れ、父君死去の當時は廿五歲の壯年なりしが、能く先代の素志を繼ぎ、終始一貫の主義の下に年中休みなしの興行を續け、以て今日の成功を致せり、廿一年より引續いて興行し、廿九年地上修繕を行ひ、三十二年の伊勢佐木町大火の時は類焼して同年十二月末日新築落成し、翌年一月一日開場、俳優は宗三郎、橘藏、荒二郎の一座にて、『曾我』の狂言にて舞臺開きを爲し、以て今日に及べり、君は元溫厚篤實、由來芝居物として社會の一部より擯斥せらるゝ如き或る種の人物とは千里の差あり、叉書畵園藝に趣味を持ち圍碁にも長じたり、此の高雅なる趣味はやがて叉樂屋内に傳播して、一座の優人俗惡なる遊戯に耽るものなし、以て全豹を察すべきなり、」横浜成功名誉鑑
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