岩崎屋山口真田輸出商店 相生町

岩崎屋山口商店
麥稈及經木眞田輸出商
相生町3丁目52番地(220)
明治の横浜手彩色写真絵葉書

山口平三郎 相生町3丁目52番地「君は千葉縣東葛飾郡手賀浦の產文久元年二月二日の誕生に係る古川泉三郎氏の長男なりと雖も故あって山口と改姓す明治三年初めて横濱に出で年歯漸く十一歳より日本商店及外國商館に入りて實務に鞅掌す明治十四年の頃偶々外國製の麦稈帽子を解きて大森附近に於て製作するる麦稈細工と大差なきを察し是れより麦稈紐の編方に鋭意熱中して 幾多の研究を重ね遂に明治十五年より麥稈眞田と稱して外國に輸出せしに頗る好評を博し需用益々加はるに及んで備中の笠岡尾張の熱田武藏の粕壁府下大森及び神戸市等に支店を設けて盛んに製造輸出を試みしも明治二十七八年以後販路次第に杜塞してに各支店を鎖閉するの悲運に遭遇しぬ然れど君が向上發展の精神と奮闘活躍の性格は豈に是れに依りて挫折するものならんや明治二十四年の秋以来麦稈眞田に代用せしめんとの目的にて木具師及び編子の子弟を雇入れ種々木製品の眞田編を試み益々敗研究の結果遂に成功して居留佛商某と謀りて各種の標本を海外に送附せに明治二十六年白色木紐の名稱を以て初めて少数の注文に接したり是れ經木眞田輸出の端緒にして爾來本品の輸出は年々盛大を極めつありといふ始め經 木眞田の賣出當時各縣の現況に依り農會の賛助を得て地方農閑の副産業として諸縣を誘導し今や茨城縣水海道町及下館町埼玉縣粕壁町神奈川縣の小田原等に支店を設け昨年以來夏帽子の研究に熱中の結果現時實用新案第四八三五登錄に係る美蘭夏帽に莫大の資金を投じ大に經營劃策に努むと云ふ君が公職及び肩書の如きは一々枚撃に遑あらずと雖も横濱商業會議所議員横濱硝子會社取締役東京朝日肥料會社取締役麥稈及經木眞田關東聯合組合會長等は其の最たるものなり」京浜実業家名鑑

麥稈及經木眞田輸出商 山口平三郎「君原姓は古川千葉縣東葛飾郡千賀浦の人文久元年二月を以て生る、故ありて山口姓を冐す、明治三年來濱し各所の商店商館等に入實務を研修し、明治十四年の頃より麥稈帽子の原料に腐心し、編方光澤等を仔細に探求し、翌年に至り麥稈眞田を外國に輸出せり、其成績頗る良好なりしかば益々進んで事業を擴大し、東京府下大森、粕壁、備中笠岡、尾張熱田及神戶市等に支店を設置し、盛んに製造を獎勵して輸出を計れり、廿七入年以後商况不振に陷り一時杜絕の悲境に沈せしも、毫も顧慮する所なく一たび支店を閉鎖して別に經木の組紐を創意して發賣せしに、注交續々到着せしにより目下麥稈に代ふる繼續事業として再び盛况を回復しつつあり、現に麥稈經木眞田關東聯合組合會長の地位にあり、又商業會議所議員に列し、横濱硝子製造會社及東京朝日肥料會社等の取締役に選ばる、君叉別に肥料及麻類の輸入引取を兼營されつつあり」横浜成功名誉鑑

岩崎屋 山口平三郎「當舗の貿易は夏帽子の原料品にありて嶄新なる奇抜なる且優尚なる一切の原料を輸出し國益を計りて民福を増進するに努む多謝々々」京浜名家総覧職業


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