横浜社会辞彙 |
渡邊房吉
醫院
相生町3丁目52番地(2700)
明治の横浜手彩色写真絵葉書
渡邊房吉君「人の干将莫邪の剣を貴ふ所以は一刀にして直に斬ることを得れはなり人の騏驥を貴ふ所以は千里の遠きも立どころに到着するを得れはなり若し夫れ世人の遅緩を厭はされは敢て利剣を欲す又駿馬の必要を感せるへし近時文明の進歩と共に人の體質は軟弱に傾き佳人才子は多病に陥り患者は一日も速に其全快を望みて各専大家の醫師を求むるや頗る急にして恰も士の名劍を望み騎士の名馬を求むるか如し而して又一方に於ては世の名醫と稱し國手の稱ある博士學士と雖も其學理と新療法に全力を注きて互に技能を争ふに至れり其金港に於ける三百の醫士は各の其特長を有するは瞭にして一長一短は免れさるへきも醫學士渡邊房吉君は實に横濱杏林界の北斗星たり君は明治十年を以て生る神奈川縣の人なり天資英邁にして頗る學を好み才又俊秀にて經學文章共に修めさるなく中學校より高等學校を卒業して東京帝國大學醫科大學に入りて外科を専攻し醫學の蘊奥を極めて優等の成績を以て卒業して醫學士となり明治三十九年二月開業す其深遠の學殖と圓熟の技能は洽く世人の知る所にして横濱醫士會の重鎮なり」横浜社会辞彙
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