横浜蠶絲日報 |
阿波屋 金子商店
蠶絲売込商
太田町1丁目9番地(861)
明治の横浜手彩色写真絵葉書
金子政吉 太田町1丁目9番地「維新開國以來海外貿易は旭日昇天の勢を以て東洋の天地に漲り世界共通主義の欧米諸邦は爪牙を逞ふして宇内に馳驅し爲めに生存競争の激甚を來たし優勝劣敗の活劇場を現出しぬ此時に當り我國民が全力を傾注して彼の鋭鋒を迎へ世界の活舞臺に於て平和の戦争に勝敗を決せんとす若し一朝にして敗衂を取らん乎國家の命脈を維持する機關たる經濟社會の運命をして死地に陥らしむるものと謂はざるべからず我が貿易業界の重鎮たる金子君は安政元年十月を以て上野國勢多郡花輪村に生る鈴木宗左衛門氏の長男にして家世々蠶絲業者たり幼時金子五左衛門氏の養子と焉りて其家を嗣ぐ明治八年横濱に出で質商を営みしが幾許ならずして之を生絲貿易商となりて大に海外に向て取引を計畫す爾來事業益々繁盛に赴き以て今日の旺盛を見るに至れり斯道の発展は實に我國運に盛衰に多大の關係を有するものなれば一日も忽諸に附すべからざるものたり是に於て乎君は満腔の熱誠を捧げて盡瘁する所あり明治十三年現住所に居をトし之が拡張に努めつつあり甘九年横濱商業銀行取締役に擧げらる翌年五月横濱火災運送信用保険株式會社の創立委員と爲る其の成立を見るに迨んで之が監査役と爲り卅二年貿易銀行専務取締役に擧げられ同年更に横濱蠶絲外四品取引所の専務理事に推薦せられ卅七年二月橫濱瓦斯株式會社の常務取締役に擧げられたり其他名誉職としては市會議員横濱商業會議所議員等にして尚ほ其他の公共事業に関係する所尠からず殊に貿易業に意を注ぎ大に同業者を鼓舞して自ら其の木鐸となり内外の通商貿易に警戒を加へ斯業の隆盛を断圖したるの功實に大なりと云ふ君は實に我岡貿易業界の指導者と謂つべきなり」京浜実業家名鑑
金子合名会社「営業課目は蚕糸貿易であって、阿波屋号の金子商店が昨年糸価の大暴落があった九月に上記の如く改称したのである。曰く『まだ漸く一年経ったばかりで是れと云ってお話し申す程のこともなく、雑誌へお書きなさる様な材料はありませんが面倒な荷主はなる可く避けて堅い荷主と取引をする方針を取っていますが年々に荷は増加して行きます、目下は荷主も問屋も警戒しているから相場は堅い方で其内に資金の回収もつき好況になるでせうが、下物が動かないのに閉口します』云々」実業之横浜
橫濱市會議長 金子政吉「市會議長として公平無比の評ある金子政吉君は實業界に於ても謹直穩健信義に篤く、夙に豪商原氏の知る處となりて大に厚遇せらる、家庭に於ける君は顔る圓滿なる良主人公にして數名の令息を愛撫し、長子常太郎氏高等商業學校を卒り、金子合名會社執行社員として本店の事務に當り、次息泰次郎氏又同校出身にして貿易銀行支配人心得たり、君夙に實業界に重望を負び五品取引所理事、貿易銀行專務取締役商業銀行取締役及貿易倉庫橫濱火災保險等の監査役を兼ね令名隆々たり、君は上州氏家の土豪鈴木宇右衛門氏の二男にして安政元年の產、年廿二家翁と共に横濱に來り質商を營み次で蠶絲賣込を爲せしが、廿七歲の時金子家の懇望によりて養子となり、十八年家業を繼承し蠶絲賣込に從事す、廿一年横濱銀貨並株式取引所肝煎となり、二十三年以來市會議員商業會議所議員たる乙と數回、又徴兵參事員水道常設員等の要職に推され、市の公事に貢献さるること鮮少にあらず、市政團に於ける一勢力として市の內外に推重さる、」横浜成功名誉鑑
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