實業之横濱 |
諏訪商店伊東三省
海産物商
北仲通3丁目48番地(1321)
明治の横浜手彩色写真絵葉書
諏訪商店 伊東三省「重に淸國向き海産物の賣込みを以て名あり店主の手腕店員の誠實は荷主ご顧客の旔足を與ふ叉斯業界の一名舖と なさざらんや」京浜名家総覧
諏訪商店「海産乾物貿易商として知らる、伊藤三省君は進取の氣に富み着實を旨とす、故を以て支那人の信用を得て同業中屈指の商店と呼ばるるに至れり。」現代之横浜
茸類寒天貿易商 伊東三省「由來讀書の人牙籌に拙と、言何ぞ妄なる、諏訪商店主伊東三省君は信州諏訪の醫家に生る、明治廿年齡正に十四、笈を負ふて東都に遊學し、第一高等中學校に入る、廿一歳にして一旦鄕里に歸へり、嚴父の希望なる醫學を完成せざりしを以て大に叱責を蒙むる、君別に見る所あり、刀圭を棄てて商界に投ぜんとし、橫浜に來りて天産物賣込商池田商店に入り、勵精刻苦大に荷主の信用を博せり、蓋し君の郷里は寒天の生産地として聞へたれば、君は細心之れに留意して研究する所ありしなり、明治卅年齡廿五、荷主の勸告を容れ北仲通三丁目に茸類寒天委托賣込の商店を開けり、當時の資本僅に二百圓に過ぎず、同業として立てるもの皆その無稽と大膽とに驚ろき、毀譽相半だが、商機を見るに敏なる天才は着々として成功し、漸次步武を進め、從來神戸の獨占輸出品たりし寒天を初めて橫浜のラスぺ商會に賣り込み、續いて盛に歐米に向て輸出を試み、橫浜細天の名聲を知らしむるに至れり、本年の如き賣込高既に卅餘萬圓に上れり、其他椎茸の賣込に於ては橫浜入荷の七八分は君の手腕に依りて之を海外に輸出し、年々約四十萬を扱へり、同品の荷造方法を改良し、錻力箱入としたるは君の創意になりしものにて、香氣乾燥に變異を生ぜざるより大に製造家の感謝を受けたり、此の如きは僅かに其一端に過ぎざれども、商家唯一の武器なる信用と勉強もて正面より强敵に當り、終に一頭地を拨くの功名を得るに至り、或は米國に向って直輸を開始し、或は淸國ボイコットに際し當路に建言する等、勇往邁進寸時も怠らず、共に椎茸寒天賣込商の連璧と稱せらる、海産天産物組合は君を推して評議員となし、其意見を求めつゝあり、市の有力家脇澤氏は君の才幹を愛し嫁すに其の愛孃を以てす、嗚呼一介の措大生、終によく緻密なる商海に游戈して彼岸に到着せる、君や决して俗庸の人にあらざるなり、」横濱成功名誉鑑
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