宇千喜パン商店 元町

宇千喜商店(ウチキパン)支店
麺麭製造販売
元町2丁目89番地(513)
ヨコハマベーカリーの打木彦太郎が元町1丁目50番地で開業。元町2丁目、鎌倉にも支店をもっていた。
明治の横浜写真手彩色絵葉書

打木彦太郎 元町1丁目50番地「原料の撰良を以て聞ゆ四季の艸花に形を採り頗る巧妙の手腕を有する職工を使役し市内にて評判の菓子店なり」京浜名家総覧職業

宇千喜麵麴製造所 打木彥太郎「英國人クラーク氏は當市に於ける麵麴製造者の鼻祖なり在留の洋人はいふに及ばず、碇泊の艦船盡く同氏の麵麴によりて供給されたり、山下町百廿九番に店舗を有したりしが、明治廿五年氏の歿後之を繼續したるものは打木彥太郎君となす、君は當市中村の人、慶應二年を以て生る、麵麴製造の術最妙手にして全市之れに比するものなく、宇千喜製食麵麭の名は最も高し、日清日露両職役の際には軍用ビスケット及び重焼麺鞄の用命を受け、多額の品を製造せり、入港艦船の賣込はクラーク氏在世の時と少しも變らず、支店は元町二丁目及五丁目にあり、洋酒及び食料品等洋食厨房の消耗品は盡く同店に於て調ふるを得るの設備となし、最も手廣く營業を擴張せらる、曩きに商業會議所議員に推され、又現に同業組合長として斯業の爲に少からず盡力されつつあり、」横浜成功名誉鑑

「多くの人は食麵麭の製造したては柔かいものだと思ってゐる亦其方が消化に好いことと信じてゐる。が、それは大なる間違であって製造したては堅いもので、亦然ういふ麵麭が消化に好いのである。それに濕ってゐては味が悪いから外人などは口にしない。併し好い麵麭は勢ひ價の高いことになる。宇千喜商店は價格の競争をしないで、品質の好い物を製造することに努めてゐる。で、料理やなぞでは好い物を欲しい場合だけ取りに来る處が尠なからぬさうだ。製造所を継承したのは廿三年前であって、以前は英人クラークの經營する處であった。年々に製造力は増加して今では優に一萬 斤を製出することが出来る。顧客は重に外人であるが、日光、鎌倉、逗子、茅ヶ崎、大磯等の別荘地へ一番滊車で發送し又は入港の外國軍艦へも納める。近々に食料品の販賣を開始して顧客の便利を計ると云ふ。」実業之横浜

横浜姓名録

神奈川縣案内誌

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