伊勢勘洋傘店 太田町


伊勢勘
洋傘製造販売
太田町3丁目46番地
洋傘業草分けで蝙蝠傘を日本で初めて製造販売した。また南京傘に蝙蝠傘と和名をつけたのも伊勢勘である。
明治の横浜手彩色写真絵葉書

洋傘業の元祖伊勢勘 小島榮次郎君「漢字繖字あり、支那は古代より布片を以て蓋に貼す、本邦人が洋傘を見て驚きしは元治慶應の頃なり、初め竹籐或は鯨髭を以て骨とし、綿布を之れに加ふ、形狀の蕪雜なる笑ふに堪へたり、橫浜の商人伊勢屋勘七氏百方苦辛し、漸くにして舶來品を摸擬し蝙蝠傘と名く、翼を張れる狀に似たるを以てなり、携帶輕便に晴雨共に適せるを以て滿市の士女競ふて購求するととな り、此に於て益々新案を工夫し却て原品を凌駕するの傾向を示せり、博覽會共進會に出品して有効賞牌を受くると頗る多し、日本製の聲價は忽ちにして貿易界に波及し、洋人淸人の手を經て支那印度の沿海岸に輸出するに至る、我工業上に多大の裨益を與へたり、勘七翁今や古稀を過ぐる實に四齢にして健在なり、分嗣榮次郎君卅七年の米國聖路易萬國博覽會に出品して銅牌を受け、卅九年の五二會共進會於て金牌を受領し、名聲益々赫々として内外に喧傳せらる、物質的文明は多く橫浜より傳へられたる中に、直ちに日本人の手に移りて其勢力は數年ならずして海外に返徙するの盛觀を呈したるは、實に此の伊勢勘洋傘の右に出づるものなし、」横濱成功名誉鑑

神奈川県案内誌

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