近栄洋物店
西洋小間物商
境町1丁目24−25番地(232)
彦根出身の飯島栄助が明治3年(1870)荒物雑貨店近江屋を元町に開業。明治9年(1867)境町に移転し西洋雑貨引取商を始めた。明治18年(1885)小売専門の洋物店に商売替えした。米国艦隊来航時には絹製品、茶道具、漆器などが売れたがそれ以上に白シャツは注文を断るほど売れた。
明治の横浜写真手彩色絵葉書
近栄 飯島榮太郎「一度店頭に立ては欧米各国の最新流行物は直に之を求むべく差し種類の豊裕品質の善良に於て優に一頭地を抜くとの評あり」京浜名家総覧職業
境町一丁目南側ハイカラ黨の立寄る所。欧米最新流行品何でも有り。」横浜遊覧商業案内 t.02
近榮洋物店 飯島榮太郎「合資會社近榮洋物店は機敏にして快活なる飯島榮助君によりて基礎を築かれしなり、君は江州彥根の人、久しく京阪地方に放浪し、維新の頃江戶に在り兵燹を避けて横濱に來り、外人を利して産を興さんと志し、明治三年に至り元町に於て始めて近江屋の號を用ひて外人向の荒物雜貨店を開けり、當時外人の用を辨ずる者少なかりしかば、氏は大に信用を得て益々自家の商業を進捗するを得たり、先ずれば人を制すとは氏が唯一の規箴なりし、勇往邁進新奇なる西洋雜貨を引取り東京及阪地方面に轉賣せしが、意外の奇利を攫するを得たり、茲に於て內外人間に立て仲介的の取引をなすの利益を看取し、明治九年境町に移轉し西洋雜貨引取仲次の業を開始せしに、果して益々繁忙を極むるに至れり、豪宕濶達利を見るに敏なる氏は、商略上時として紅樓に流連し、一擲萬金棄てて顧みず、紀文風來の面影躍如たるを覺ふ、囊中漸く重を减じ、債鬼亦門に滿つるに當て更に叉一計を案出し、巧みに機軸を捉ヘ來りて活動を試むるに、其効果空しからず、屢起き屢倒れ、人をして殆んど端倪し能はざらしめき、晩年に至り素行大に革まり、商略益々光鋩を存し、終に克く鞏固動かす可らざる近藤洋物店を設置し、仲次業の永久的利あらざるを悟り、全く小賣專門の方針を定め、品質精良嶄新奇拔なる舶來品を輸入し、正直勉强を主として大に内外人の信用を博し、境町近江屋の名聲は京濱紳士淑女間に喧傳さるるに至りぬ、明治卅二年店を令息榮太郎君に讓りて君は根岸の別荘に老を養はれしが、卅八年十二月六十七の高齢を以て溘焉不歸の客となりぬ、嗣子榮太郎君は實に守成の器にして、よく乃父が創業の遺志を擴張し、店運日に益々繁盛に赴く、其製品の如き先代より內國勸業博覽會に出品して金銀賞牌及褒狀を受けしこと頗る多し、現今別に襯衣及麥稈帽子の店舗を設け其製造販賣を爲し、益々異彩を放ちつつあり、」横浜成功名誉鑑
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