岡部絹物輸出商店 南仲通

京浜実業名鑑
岡部商店
絹物輸出商
南仲通2丁目26番地(372)
明治の横浜手彩色写真絵葉書

岡部菊太郎 南仲通2丁目26番地「明晰正確なる頭腦は古今東西の學を究めて英を呑み華を阻み鬱然として大家の域に達し敏活縦横なる手腕は各種會社の重役として快刀亂麻を断つのあるもの是れを岡部吉太郎君となす君は明治四年九月十六日栃木縣安蘇郡新合村に生る先考を仲藏氏と云ひ君は其の二男なり家は代々農を以て業とす幼にして快穎敏倜●不羈夫れ猛虎深山に嘯くときは百獣懾伏す然もこれを捉へて庭園に繋かば遂に悶死せん鯨鯢大海に游ぐときは鱗介皆披摩す然も之れを獲て湖沼に放たば遂に鬱死せん其蛟龍の永く池中に住まざるもの豈偶然ならんや君郷關に在りて學ぶと雖も鬱勃燃ゆるか如き功名の念は區々たる一小天地に甘んずるを得ず明治十九年東京に出で小石川なる同人社に入りて専ら英獨漢學を研究し甘四年蛍雪の功成りて同校を卒業し同年直ちに早稲田専門學校に入りて親しく碩學鴻儒の説を聞き東西古今の學を究めて英語政治科を卒業したり時に明治二十六年なりき然れ共交筆を以て世に立つは君の志に非ず營々として坊間に輜利を争は君の願ふ所に非ず眼を世界の大勢に注ぎて歐米各国と貿易を營み國利の増進を計る是れ君が宿志なりき果然明治三十年現所に開業し盛に絹布羽二重等の直輸出をなすや一擧して多大の富を得遂に金港有数の一大商賈となり商運今や隆々たり明治卅八年山下町三十番地に直輸出店を設け同三十九年に横濱五品取引所仲買人となる現に横濱經濟會幹事横濱區會議員絹物商同業組合長として其の名高く越後の高田羽二重株式會社取締役福島縣の東北機業株式會社監査役神戸の日本輸出羽二重株式會社監査役横濱の日本絹布精練株式會社取締役として得意の敏腕を揮ひ又聖路易博覧會に絹物を出品して金杯を噲興せられぬ」京浜実業家名鑑

少壮羽二重商の筆頭 岡部菊太郎「岡部菊太郎君は栃木縣安蘇郡新合村の人、明治一年の生、少ふして東京に出て、同人社及早稻田專門學校に入り、政治經濟の學を專攻し、業了へて後橫濱津久井商店の店員となり、實修四年、明治卅年尾上町に羽二重業を開き、後現所に移る、卅八年山下町卅番地に直輸出店を設け、卅九年五品取引所仲買人となる、君公共心に富み、よく社会事業に斡旋し、又経済界の為めに盡す所甚だ多し、則ち其最なるものを列學すれば、日本絹布製練株式會社、高田羽二重株式會社の重役にして、公共方面には前横濱絹物商同業組合長、商業會議所議員及び区会議員として令名あり、又君の商品に對しては、曩きに聖路易博覧會に出品して金牌 を贈輿せらる、以て其一斑を窺ふべし、君性篤實穏健友誼に厚く、頭脳明断商機を逸せず、而も信用を重んじ然諾を違へず、頗る文明商人の風あり、蓋し少批絹布商中の𨪙々たるもの也、」横浜成功名誉鑑

「当市南仲通二丁目岡部商店は近来頓に業務盛大となり市内同業者間に嶄然たる頭角を抽んじ往々先進商店をして後に瞠若たらしむるの世評ありと聞くが是れ同商店が最も各産地荷主の便宜を図り信用を重んじ確実に委託に應ずるの致す所なるのみならず岡部菊太郎氏が常鱗凡介の商人に異なりて別に一箇の頭脳あり手腕あるに由るなるべく同店が横浜羽二重界の一明星となりて其勢力の中心點に位するは偶然に非ざるなり。」実業之横浜

岡部商店 尾上町1丁目4番地 主人岡部菊太郎「絹織物組合員中任侠磊落を以て聞ゆるものを同店の主人となす、材學觀るべきものなしと雖も意気愛すべく放言飾る所ろなしと雖も至誠能く人を動かす自から曰ふ、不言實行も可ならざるにあらずと雖も言はずんば責なく責なくんば則ち懈る、予は常人なり、懈らざらんが爲めに先づ責を作り、責を作つて而して後に行ふと言偶ま奇禍を招くも悔ふることを爲さず、只曰く是れ不明の罪なりと、其の人を怨みずして自からを責むる斯の如し、店員の用を楽んで孜孜其の命に奔走するは全く之が爲めなり、現時絹物賣込の外に絹製刺繍品の直輸出を營み、兼ねてホワイトシャーツを商ふ、旅順ダルニーの特約店を経て露國の内地に輸送せらるるもの其の數を知らず常に外人に對する本邦商賈の信なきを憂へ粗製を戒め濫造を謹み、時に利害の外に逸して信を海外に得んことに務む頃日全國絹織物業者聯合大會の我が横濱に開かるるを選ばれて準備委員となり、奔走盡力日も亦た足らず世間稱して得易からざる人物なりと謂ふ」現在の横浜

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