リンネル・パテン販売
山下町168番地(1250)
明治の横浜手彩色写真絵葉書
「絹布、リンネル加工バテン其他雑貨の直輸出を以て知らる店主岩下庄蔵氏は屡々海外に赴き能く彼地の状況に通ぜるを以て取引次第に拡張せられ信用内外人の間に厚し」現代之横浜
「岩下商会は昨三十八年春横浜山下町百六十八番に設立せられ、リネンの製造を主とし、バテン、刺繍、レーズの製造及び絹織物の輸出をも営み、設立の日浅きにも拘はらず其業務の殷盛にして同業商会間に嶄然一頭角を抽する所ろ、播種早く了りて収穫兼ね至るの概あり。支店二あり、一は横浜に在りてリネン製造のことを取扱ひ、他は神戸に在りて専ら雑貨を輸出す。夫れリネン、バテン、刺繍、レース等は各々製造の趣を異にすと雖も、原料を海外に供給し最も有利の工賃を收むるに至つては則ち一也。而して之が意匠図案は廣く欧米の長を採り短を棄てて、加ふるに日本美術上の精粋を以てせば、日本の女性は手順の技芸に特得の優所あり、日本の労銀は欧米何れに比して低廉なり、日本の美術は世界に卓越せる妙所あるを以て、愛欄、獨逸、其他の原地を凌駕して、日本特得の是等工芸品を世界に供給すること敢へて難事に非ざるべし斯くの如く此業務は前途甚だ有望也。岩下商会の主宰者岩下庄蔵氏は其業に対して多大の経験を有す。乃ち料り知る、岩下商会が短日月の間に早くも成功の緒に就けるの偶然に非ずして、前途の発展亦窺知すべからざるものあるを。」実業之横浜
輸出入商 岩下庄藏「君邸宅は野毛町三丁目にあり、店舗はリンネル及びパテンを販賣し頗る聲名あり、生家は足利町にして累世織物仲買商を營む、夙に慶應義塾に學び俊才の名を博す、廿三年八月米國に遊び市俄古ブライアント商業學校に入り螢雪朞年、廿四年末に至り獨立雜貨商を經營す、廿九年八月歸朝して日本織物株式會社に入り事務課長となる、三十四年管川淸氏と共に再び渡米し視察すると一年半後今の店舗を開けり、君質性淡泊胸中實に光風霽月の如し、公共博愛の心深く 屢々巨資を投じて斡旋奔走到らざるなしといふ、双好個の實業家と云ふべきなり、君年齒猶壯にして前途頗る多望なり、斯業の爲め、願くは加餐せよ、」横濱成功名誉鑑
岩下庄蔵 野毛町3丁目109番地 営業店山下町168番地「滔々たる實業界蕞爾たる一小天地に営々とし蝸牛角上に利を争ひ汲々として緇銖の巷に奔走するの時に當り眼を世界の大勢に注ぎ時勢の進運に乗じて決然萬里の波濤を蹴破し歐米文化の中心たるシカゴ市に雑貨商を開業して輸羸を外人と決せる岩下庄蔵君の如きは當代洵に得易からざるの人傑と謂うべきかな君は明治三年三月二日を以て栃木足利郡足利町に生る父を善七郎氏と稱し君は其の二男なり家は代々足利産の織物仲買商なりとか君幼にして頴敏聰明學を好み卓犖不羈大志あり郷閭に在りて普遍學を卒ふるや東都に出で、慶應義塾に入り切磋砥勵頗る努む明治二十三年七月成績抜群を以て同校を卒業し同年八月更に北米に遊びてシカゴ市ブライアント商業學校に入り螢雪錐股の功を積むこと一ヶ年翌年即ち明治二十四年末より獨立獨行雜貨商を營みて機敏慧捷奇利を博せが故ありて明治二十九年八月帰朝し後日本織物株式會社に入り事務課長となり明治三十三年の春同社を辭して直に東京市日本橋區龜島町の菅川晴氏と謀り同氏と共に三十四年商業観察の爲め米國紐育に渡航し同所に停ること一年半後帰朝して菅川氏の商店に在りて之れを經營幇助し頗る同店に貢献する所ありき三十八年これを離して現今の所に一家を構へ獨立自營以てリンネル及びバデン等を販賣せしが時勢に適ひ時機に投じて開業日尚ほ浅しと雖も其の繁榮盛大なる今や金港有数の大實業家たるに至りぬ君資性瀟酒恬淡磊として胸中光風霧月の如く敢て一點の邪氣塵影なし又公共博愛の事業に斡旋盡力して巨資を投じ勞力を致して倦むことを知らざるは實に好個の實業家と謂つべきかな吾人は其の自重加餐して益々斯界に貢献せられんことを希望す」京浜実業家名鑑
現代之横濱 |
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