岩上合名会社 元浜町

present-day impressions of Japan
岩上合名会社
蟹缶詰、食料、穀物、繊維輸出業
元浜町4丁目30番地(859)
明治の横浜手彩色写真絵葉書

綿布輸出商 岩上合名会社 岩上幸太郎「君は明治二年三月下野國安蘇郡赤見村に生る、家代々機業家なり年十七東京に出で、諸家の門を叩き漢英の學を修め、造詣する處深かし、野州の特產なる木綿縮輸出の目的を抱きて横濱に來たりしは明治廿二年の頃なり、南仲通四丁目に店舗を開き、翌年產地なる野州佐野に支店を置き、拮据經營具に困苦を甞む、由來木綿縮は夏期の襯衣用として需用多く、印度沿海岸の如きは常服として大に歡迎せらる、君夙に此の明あり、畫策宜しきを得方法頗る周密に能く其機に投ぜしかば、 明治廿七年度に及んでは輸出年額實に七十寓圓を算するに至れり、其年布畦ホノルルに支店を設置し、令弟某氏を支店長として赴任せしめ、益々業務の擴張を来せしより、卅二年兄弟二名の合資組織に改め、堂々其歩武を進めたり、卅七年更に大阪に支店を置き関西生産地の収集に充つ、聖路易博覧會の開かるるや米国に出張して滞在一ヶ年、汎く需用地の状況を視察し、翌年直ちに桑港に支店を創立して輸出の敏活を謀り、一層販路を進捗せしめつつあり、曩きに横濱同業者の組合を設くるや、其役員に擧げられて今に其任に在り、又以て君が重望を荷ふの度を窺ふべきなり、」横浜成功名誉鑑

岩上合名会社「米領布哇に支店を有し本業の外在留日本人へ供給する食料其他絹織物を輸出す在布の同胞は本舗を介して常に故國の趣味に飽く事を得ん」京浜名家総覧職業

岩上幸太郎 元浜町4丁目30番地「滔々たる實業界渺々たる蝸牛角上緇銖の利を争ひ微々たる内國商界に輸贏を決して得々たるが如きものあるは笑ふべし夫れ商人たるもの須らく世界列國を對手とし海外萬里に覇を占めて一擧以て國家の富強を謀り一投以て他邦の財寶を吸収すべきなり金港第一流の貿易商岩上幸太郎君の如き慥に此種の人士なり君は明治二年三月三日下野國安蘇郡赤見村に生る岩上幸次●氏の長男にして家は代々織物製造業たり明治十八年上京して碩學鴻儒に就き専ら漢英の學を修め造詣頗る深きものありといふ君弱冠にして卓落不羈の志を懐き夙に世界の趨勢に着目する所ありしが明治廿二年故野州唯一の物産たる木綿縮輸出の目的を以て横濱に到り地理を卜して南仲通り四丁目に一家を構へて貿易商を営み翌年更に産地下野の佐野に支店を設け益々拮据經營に心肝を砕き劃策施設に全力を注ぎたる結果二十七年に至りて輸出統計年 七十萬圓を以て數ふるに至りぬ其の進境偉大なる實に驚嘆するに堪えたり同年横濱同業者と謀りて横濱綿布貿易商組合を設立し爾來重役として得意の敏腕活手を揮ふ同年更に布哇ホノルル府に支店を設置し實弟を支店長として専ら日布貿易に務めしめたるが三十二年に至り兄弟二名の合名會社組織に改めて益々事業を拡張し今や日布貿易の覇王として其名宇内に喧傳す三十七年大阪に支店を設け今年八月米國聖路易世界博覧會を好機として米國に渡航し滞在一ヶ年餘備に同地の商業を観察して歸朝と翌年直に桑港に支店を創立し以て横濱本店取扱商品の輸出機關となすと吾人は君か春秋に富める前途に多大の希望を囑し横濱市の爲め將た邦家の爲め益々活躍奮闘以て世界有数の實業家たらんこと鶴首翹望して止まざる也」京浜実業家名鑑

「綿布直輸出業者として尤も信用あり取引も亦多く貿易商中有力なる商店として知られたり。」現代之横浜

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