渡辺船渠 高島町

京浜実業名鑑
渡邊造船鉄工所
造船所
高島町5丁目11番地(1416)
明治の横浜手彩色写真絵葉書

渡邊忠右衛門 高島町5丁目11番地「好きこそ物の上手なりけれと蓋人々天稟の才は其嗜好する所に発展すべきを謂へる者か古來練達と成功を以て名聲噴々たる者あるは皆其好む所に従って研鑽怠らざりしなり伊能忠敬の測量に於ける圓山應擧の畫に於ける等數へ来れば枚擧に暇あらず渡邊忠右衛門君の如きも亦此の圏内の一人なり君は嘉永元年を以て静岡縣君澤郡戸田村に生る父を金右衛門氏と稱し其の次男なり幼時より夙く西洋形造船術に見る所あり文久三年八月初めて江戶石川島廻船方御用所に従業し慶應二年六月に至りては君が嗜好は益々其の精緻を加へ横須賀海軍造船所御雇佛國人パステアン氏に就きて學ぶ所あり明治三年十月横濱居留地六十六番館英國人ウヰドブール氏鐵工所に入り明治七年十一月東京築地なる時の海軍兵營寮御雇英國人サット氏に就きて更に斯術を學び明治十一年より三菱會社横濱製鐵所に執業す其後同社の共同運輸會社と合併して日本郵船會社と改稱するに及び同社横濱監督課船長監督オーカ氏に従属し同廿五年九月同社橫濱鐵工所技手に擧げらる其勤務中同所は横濱船渠會社に譲渡しとなりしも君は引続き其社務を託せらる然れども君が抱負の雄大なる豈に此地位に甘んぜんや瞬蹶然起ちて横濱市高島町に造船及諸機械製作業を自營す實に明治三十一年一月なり君是れより多年の練磨と經験とに因り會得したる技量を発揮して日本郵船會社及び京濱間諸官衛の御用に應じ好評工業者間に喧傳せらるるに至れり君が志始めて酬りと謂ふべき歟而も君は益々奮勵して止まず一面には世の多くの需用に應ぜんと欲し昨臘中英國より數䑓の新式諸機械を輸入して設備おさ怠らず他面には工業界の進運を企圖して後進の指導に誠意を盡しつゝありと云ふ」京浜実業家名鑑

渡邊忠右衛門「下田の砲聲長眠を破り、文明の曙光は東天に輝きそめぬ、世は黒船に驚き、異人に驚き、見るもの聞くもの皆驚きの種ならぬはなし、此時に當りて造船工となり、西洋形造船の術に一生を委ねんと健気にも志を立てし一青年あり、他なし渡邊忠右衛門君其人なり、君は嘉永元年岡縣君津郡戸田村に生る、幼にして江戸石川島造船所の一職工となり、鐵槌を振ふて猛火と戰かひ、錬に鍛えし健腕は鐵とも見るべく嗜こそ上手の警に洩れず、慶應二年六月には横須賀海軍造船所に派遣さる、此處には御雇佛國人パスァアン氏工師としてあり、君専心同氏の指揮に従ひ大に得る所あり、明治三年横濱居留地六十六番英國人ゥヰドブール氏鐵工所に入りて業務を執れり、明治七年更らに時の海軍兵營寮御雇英図人サット氏に就きて研究せんものと東京築地の同寮に輾ぜり、明治十一年に至り君は非凡の工匠として世に知られたれば、三菱會社横濱製鐵所は終に是を羅致することとなれり、後日本郵船會社と爲るに嘗り、同社横濱監督課船長監督ウォーカー氏に隷屬し、廿五年九月同社横濱鐵工場技手に任ぜらる、同所の船渠會社に譲渡しとなりしより引績き其社務の嘱托を受く、遠大なる君の素志や将に到来せんとする時機に接せり、時維明治卅一年一月蹶然立ちて横濱高島町に造船及諸汽機鋳造並諸船舶修繕業を開始せり、多年の錬磨と各種の経験は一斉に破揮し諸官衙會社の用命頻々 として來り漸次擴張し て第一より第四の工場を有する至れり、目下第二工場を改築擴張中にして成功の暁には神奈川奮䑓場より北方に於ける海面三千坪の大船渠を見るを得べし、疇昔の理想は現實に酬ふを得たり、君の得意や想ふべきなり、啻に君の喜に止まらず、國家の慶事として吾人は多謝せずんばあるべからず、」横浜成功名誉鑑

「最初平沼へ開業したのは明治廿一年十一月其後現今の高島町五丁目へ移輾したのであるが、製造品目は造船、汽機、汽罐各種鋳造及諸船舶の修繕等であって、工場は第一高島町五丁目十一番地、第二神奈川船渠及造船部、第三高島町六丁目十三番地、第四高島町五丁目十番地鋳造部の各所に置き盛んに製作に従事してゐるが郵船會社の作事二分の一は當所で引受け、其他の注文も少なからずある。本年々末迄には䑓場附近へ一大石造の工場を建設し、前記の各工場を一ヶ所に纏め船渠を造り大製作に應じ得べく目下工事を急ぎつゝあるから、より完備したる造船所隣益発展を見ることであらう。」実業之横浜

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實業之横濱

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