大浜洋糸織物商店 南仲通

實業之横濱
大濱商店
洋糸織物商
南仲通3丁目42番地(223)
明治の横浜手彩色写真絵葉書

大濱忠三郎 南仲通3丁目42番地「氣宇闊達にして清廉潔白なること宛も光風霽月の如く操行泰然として確乎不抜なること狂瀾怒濤中に屹立して動かざる巌の如く抱負雄大にして眼中權勢富貴なきは是れ横濱第一流の實業家大濱忠三郎君にあらずや君が先考は素と信州の出故に山嶽的氣風を禀けて勇邁剛毅勝敗を一気に決する底の人なりとか君幼にして穎敏聰悟學を好み温厚篤實人と争はず然も勃々たる覇氣綾々たる気骨内に藏して識見既に天地を呑吐するの概ありしは當時古老の窃に驚嘆したる所なりしと云ふされば君の社會に出づるや徳望名聲全市を壓して公私の事業一として君の關聯せざるはなく其の明治三十二年横濱商業會議所議員となりたるを始め三十四年の改選に際して蠶絲外四品取引所の理事となり三十七年の補缺選擧には殆ど満點の勢を以て縣會議員に當選し同年日露戦役の事あるや國民後援事業の忽にすべからざるを認め曾て何等の團結を見ざり南仲通りに同志と共に新に南睦會なるものを組織して君は其の會長に推され爾來拮据精勵多忙繁劇なるにも拘らず出征軍人及び其遺族の慰問送迎救恤等に努めて奔走盡力至らざるなく又横濱小學校の運動場として宮内省御用地一千坪の拂下に盡悴して遂に奏功せるが如き又君が區會議員として重大なる學校事業の完成に努めたる功勞の如き大に市人の念とせざるべからざるものなり其他君が横濱洋絲織物商組合の頭取として得意の敏腕能く基礎の鞏固を致し横濱倉庫株式會社を創立し横濱鐵道株式會社等の發起人となりて奔走斡旋の任を全うしたるが如き一々枚撃に遑あらざらんとす又熾んならずや若し夫退きて君が家庭を見んか靄々たる和氣堂に満ち宛然百花満開の樂園に逍遙するの觀ありと云ふ」京浜実業家名鑑

少壯實業家の俊逸 大濱忠三郎「大濱商店は洋絲織物引取を業とし、東京日本橋田所町に別に洋絲織物卸部を置き、京濱間有數の老舖なり、前代大濱忠三郎氏(天保十二年生)慶應の始め信州より出出て業を始む、種々の公職に歷任して功あり、廿一年勅定の黃綬褒賞を賜はる、現代忠三郎君は其嫡男にして明治四年を以て生る、幼より聰明、京濱間に遊學して蚤く秀才の目あり、廿一年早稻田專門學校を卒業し、廿六年歐米を遊し、歸來(明治三十九年)父の箕裘を繼ぎて實業に從事し、少壯手腕家として嶄然頭角を擢んで、光鋒陸離として顯はる、曩には關東煉瓦株式會社及大日本共同運輸株式會社の社長に推され、横濱生命保險株式會社の專務取締役を兼ね、 近く横濱鐵道株式會社及橫濱倉庫株式會社の創設に盡力して其重役となり、市の新發展事業の遂行を企畫せる如き、君の深意の存する所を知るべし、公職としては市参事會員として又横濱商業會議所常務委員として、市政及經済の樞機に参輿し、業務の方面には蠶絲外四品取引所常務理事及洋絲織物引取商組合頭取として令名あり、又區會議員として常に學務の完成を期待し、曾て横濱小學校運動場に充てんが爲め、宮内省御用地一千餘坪の拂下に苦辛して奏効し、三十七八年役南睦會の會長として後援事業に奔走し、能く国満の成果を収めたる如きと、公利公益に熱心にして又精緻なる手腕に富めるを窺ふに足るべし、君風貌瀟洒宛として貴公子の風あり、而も気字快活賦性剛邁、事に當りて断乎として所信を決行するの慨あり、宜なり新進少壮の辣腕家として市民の君に翹望する所甚だ大なるや、」横浜成功名誉鑑

「横浜に洋糸織物引取商の中では最も古い方であって、慶應元年に辨天通へ開店し其後現在の處へ移ったのである。外国商館との取引が主になってゐて、売捌きは東京市日本橋区田所町の支店の方でやってゐる、先代が某商館と取引してゐた時に役定後其品が暴騰したので、先代では急に気が変って破約しやうとしたから、大に其不徳義を責め此際之を黙過する時は獨り個人の損害のみならず、延ては対外人取引上に於ける由々敷悪例を遺すものであると、時の県知事に迄申して大に其曲直を正し、遂に外人をして暴利を得るに由なからしめた。当主は公共事業に盡され又実業、社交の両界に雄飛し現今は市参事会員の職にある」実業之横浜

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