奉祝記念誌 |
伊原商会
質商
港町2丁目15番地(2063)
明治の横浜手彩色写真絵葉書
伊原文輔「君は千葉群の人加瀬法隆氏の男なり、家世々醫を以て業とするが故に親戚伊原氏に養はれて嗣子となりたる後も長谷川泰氏の濟生学舎より進んで醫科大学別科生となり修業せしが、一朝志を立てて商界に爲すあらんとし、明治十九年横濱に來りて住吉町に質商を始む、此時三十三年の十月なりき、後思ふ所ありて現所に移輾し更に人事物件周旋合資會社を設立し、三十九年更に之を改めて海員紹介部とし海國民の急要に應ぜり、業務駁々発展するに連れ資産大に増大し、今や更に文明の利器たる電話売買紹介の業に手を染め同業中一頭地を拔くの盛况に在り、君は古今東西の學に通曉し又遊藝娛樂の技に精しく、且つ義氣に厚く、曾て千葉縣道路改正に際して盡瘁し、又日露戰役に當り率先して軍資を献じ共に木杯を下賜せらる、」横浜成功名誉鑑
「賭奕の眞最中、警官に踏み込まれて捕縛されたのを、振り切って横浜落ち、暫くは南京町の賭博宿ミズ屋敷に隠れて、期満免除を待ってノコノコ這ひ出して來たのが、 抑開店の動機と爲ったのだ。最初は住吉町で桂庵を開業して中頃現在の處へ移ったので、海員周旋では随分ポッと出の田舎者を絞ったものだ、旅人宿と連絡して何の彼のと所持金を捲き上げ逆さにしても血も出無いと見切ると突放す、海員周旋業の弊は世人のよく知る處であるから茲には敢て書かないが、當店も斯弊中の随一であったのだ。質店、下宿屋、高利貸などをして一時は横浜裁判所へ日参をして、營業上の違反なぞは屁とも思はなかったのであるが、近頃は小金が出来た處から自分が矢表に立た無いが、綾吊りの糸で世間の目を誤魔化し、手代等をして益々活動させてゐる。」実業之横浜
伊原文輔 港町2丁目15番地(1588)「東西古今の學術より遊藝誤樂の末技に至る迄通ぜざるなき快活圓満の紳士を伊原文輔君となす君は千葉縣市原郡姉崎町字椎津に生る加瀬法隆氏の長男にして代々醫を以て業とす偶々親戚伊原吉兵衛氏の物故せられて嗣子なく自然絶家とならんとするや再興の爲め君十四歳の時同家に入りて之れを嗣き以て伊原氏を冒す君にして穎敏聰學を好み機敏活達群童と異なり稍々長じて醫家たらんと欲し決然笈を負ふて東都に上り刀圭界の一偉人長谷川泰氏の主宰せる濟生學舍に學び研鑽すること一ヶ年後大學醫學部別科生となりて修業するこ二ヶ年大に造詣する處あかりしが君一日慨然として嘆じて曰く微々たる一醫師何ぞ吾が素志をなすべんや富國強兵の術男子一代の偉業須らく實業に俟たざるべからずと多年修養の學術と原來蘊蓄の醫術を棄てて明治十九年飄然として横濱に出で住吉町四丁目に居を構へ東奔西奔如何なる職業の今後社會の要求に叶へるかを観察する所ありしが遂に準備を整へて質商を初めたるは三十三年十月なりき然も君が雄大高遠なる志望は豈に是れに留まらんや遂に現在の所に移轉して人事物件周旋合資會社を組織して拮据經營大に努め社運頗る隆盛に向ひしと雖も事故ありて三十九年四月之れを解散し更に伊原海員の紹介部を設立して海員の紹介誘液に意を致し心を砕きつつありといふ夫れ四方環海の日本帝國は民に海事思想を鼓吹し海員を養成するは實に目下の急務たらずんばあらず而し伊原君の茲に留意せられたるは明識活眼の士と謂ふべきか君亦義侠の氣に富み公共の念熾んにして曾て千葉縣道路改正の際盡瘁し又日露戦役の時率先して軍資を献納し共に木杯を授興せられたるは能人の知る所なりとす」京浜実業家名鑑
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