現代之横濱 |
飯泉幸三郎
材木商
長者町1丁目1番地
(1639)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑
飯泉幸三郎「伊勢幸と稱する有名なる材木商にして同業者間の信用厚し、性温厚摯實に推されて縣會議員となり現に其職に在り。」現代之横浜
伊勢屋材木店「君諱は貞康本姓は野村氏出でゝ飯泉家を襲ふ武州西多摩郡吉野村柚木はその生家にして、家譜は宇多源氏の嫡流に出で最由緒正しき系統なりといふ、明治十六年横濱に來り、材木商を開始し伊勢屋と號す、天性理財に長じ運用の妙は人の及ばざる處なり、本業の傍ら借家の建築に従來し、現今君の所有に属するもの一千餘戸の多に及ぶといふ、又盛ならずや、君は安政六年七月十日を以て其郷里に生る、三十七八年役には有力者と共に率先して後援事業に従ひ、軍勝會副會長として軍國の爲めに盡せり、」横浜成功名誉鑑
「凡そ其の業を盛ならしめんと欲せば其の業に精なるを要す其の業に精ならんと欲せば其の業に携さはるを要す飯泉幸三郎君の材木業に従事すること数十年今日の隆盛を致せる豈に偶然ならんや君は安政六年七月十日を以て武州西多摩郡吉野村に生る父を野村五兵衛氏と呼び君は其の三男なり家は代々生糸材木質商を以て業となす幼にして温厚篤實恭謙自重人皆呼びで神童となす齢漸く十四歳即ち明治五年の秋初めて東京に出でて深川區大和町なる某材木店に入り勤續すること實に十二年其間の勤勉力行艱難辛苦は言語筆紙に盡すべからざるものなりき明治十六年三月横濱市石川町七丁目なる飯泉家の懇請によりて養子となりしが當家は代々質商を以て業とし頗る繁昌せしと雖も君が斯業に経験なく旦從來多年の修業と研究を積め材木業をすることの得策にあらざるを悟り直に家業を改めて材木商となり鋭意熱心拮据經營百折撓まず千挫屈せず風に梳り雨に沐して分晷をも浪費せず寸陰をも徒消せず夜を以て日に次ぎしが其苦心空しからず遂に現今の隆盛を見るに至れり夫れ君が今日の成功は素より奮闘勤勉にありしと雖も亦其の業に精通せるの力與って大ならずんばあらざるなり庶幾くは世の泛々として浮草の彼方に赴き此方に走り敢て一定固着の態なきが如く朝に目的を定めて夕に之れを改め碌々として一事一能に達し能はざる徒は宜しく君の傳記を讀んで反省する所あれ明治三十五年區學務委員に推されて教育の普及發達を計り赤十字社員となりては博愛慈仁の主旨を奉じて義勇奉公の誠を致し材木商組合委員としては斯業の智識経験を傾注して以て其の進歩発展を企て及某會社の監査役となりては公明厳正敏腕辣手の譽れありと云ふ」京浜実業家名鑑
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