野毛町3丁目123番地(347)
明治の横浜手彩色写真絵葉書
「店主は三十餘年前に帝国大学を卒業して大に爲す處あらんとしたのであるが、當時の時代思潮が官尊民卑であったから実業は卑められ振はざること甚しいので断然意を決し實業界の人となった、で、現在の處へ明治十三年に薬局を開いて調剤又は薬種を販賣し始めたのである、市内の醫師の大部分へは毎日午前中に注文取の小僧を廻して午後にこれを配達させてゐる商売風は極く滋味で物堅いが又進取的の處もある、日本薬剤師支部會長として横浜薬業界の重鎮であって社交に巧みであるが同業者圏内より外へあまり出ないやうである。」実業之横浜
橫濱薬種商の草分 栗原淸八郎「藥劑師栗原淸八郎君の嚴父淸翁は實に橫濱に於ける斯業の草分なり、文久元年江戸麻布より橫濱に來り、僅々廿兩の資本にて洋藥を購入し、草根木皮の漢藥界より脱出して嶄新なる方法を取りしに其計畵大て當りて間もなく資金を作くるに至れり、翁や本年古稀已に四齢を過ぎ、初音町に隱居して佛法講話を聽くを無上の樂として晩年を送らる、現代は慶應元年の生れ、明治十八年大學藥學科を卒業し、内外藥種醫療器械度量衡等をも販賣し、業務益々繁忙を極め店運日に盛况に趣けり、往年薬種商組合に係る艸樂會々長となら、日本藥劑師會神奈川縣支部長に推されて頗る令名あり、且平素公共心に厚く、嚴父淸滃とともに人の難を救濟すること 屢々にして、一片の俠氣稜々たるは衆の認むる處、この陰德乙を今日の陽報と齎し來りたるものならずんばあらず、」横濱成功名誉鑑
横浜貿易新報 |
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