大野屋絹店 本町

大野屋
輸出絹物製造販売
本町3丁目44番地(1442)
明治の横浜手彩色写真絵葉書

鳥居千代松 本町3丁目44番地「龍は雲を獲て益々靈に虎は風を得て益々猛なり實業家たるもの先つ其の學を修めて愈々其の術に達せりと謂ふべきか君は明治三年十月三十日を以て滋賀縣甲賀郡宮村に生る父を幸次郎氏と云ひ君は其の二男なり幼にして穎敏悟聰學を好み機敏活達人の意表に出つ小學校を卒業するや明治十九年滋賀縣商業學校に入り螢雪錐股の苦を積み研鑽精勵大に努めるの結果東西商業の状況に通じ斯學の蘊奥を究めて二十三年五月抜群の成績を以て同校を卒業し後長濱小學校に入りて教鞭を執り育英の業に従ふこと殆と一年半然れども君が元来の志望は商界に立ちて大に輸嬴を決し更に海外諸國と貿易して國利國益を増進し以て富國強兵の實を擧けんと欲するにありしを以て明治二十五年三月京都市下京區烏丸大野善兵衛氏方に入りて商業の見習をなし拮据奮勵殆んと寝食を忘れ寒暑を厭はず主家に盡瘁せしかば大に同家の信用を得遂に抜擢せられて横濱現在の場所なる支店支配人に榮轉しけるが三十三年商業の不況と其の他の災厄に遭遇し主人の失敗破産の悲境に至りしを以て君断然是れを買受け爾来益々桔据經營粉骨韲身事業の振興に盡瘁せしの効空しからず今や輸出絹製造販売店として横濱有数の商店となり一ヶ年の販賣高二十萬圓以上の高額に達すとは又熾んならずや而して君が名望聲譽及斯界に嘖々たるものにして三十七年七月より繼續して横濱輸出絹物同業組合製品部委員として敏腕辣手の評高く其製造品質の確實精巧なるは嘗て米國聖路易博覺會に絹刺繍を出品して銀牌二個及び銅牌を受領し白耳義博覽會に又出品して銀牌二個を受領し其の他の内外博覽會に賞牌を得たるを以て見ても是れを想像するを得ん豈偉ならずや吾人切に其自重を祈る」京浜実業名鑑

絹物加工品商(大野屋號)鳥居千代松「鳥居千代松君は滋賀縣商業學校を卒りて後京都烏丸大野善兵衛氏の商店に入り、大に用ゐられて横浜支店支配人となれり、明治卅三年の頃輸出絹物に大凶慌を來せしことあり、其の打擊を受けて一時閉店に决せしかば、君は大に之を憤慨して其店舗を讓り受け獨立維持を試みたり、忍耐叉忍耐終に難關を脱して漸く順况に復せしより、努力一番米國に向つて其の銳鋒を下し、更らに英佛諸國に輸出を開始せり、機先を制するは是れ商家の秘訣、君常に此の常套を逸せず、夙夜勉勵せし結果は終に今日の盛觀を示すに至れり、君は明治三年十月卅日江州甲賀郡宮村に生る、年齒猶壯に爾後の發展や實に豫期すべからざるものあらむ、」横浜成功名誉鑑

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