横浜開港五十年祭 井伊直弼銅像除幕式

横浜開港五十年祭 
井伊直弼銅像除幕式
明治42年(1909)7月11日、開港五十年式典より10日遅れて除幕式が執り行われた。
明治の横浜手彩色写真絵葉書

「大老井伊掃部頭直弼卿は、我が帝國の國是を五十餘年前に表定せしめたる平和の守護者たり。實に渠れ直弼は身命を捧げて帝國の國是を確立し之れを表彰せし偉人也。舊彥根藩の有志等は、故主直弼卿の偉業を千歲に傳ふるの目的を以て今を距ること二十餘年前横濱戶部町に在る一崗を購求し掃部山と名命し之れを公開して市民逍遙の塲所たらしめ此地に紀念碑を建設するの計書を爲したり、時に明治十四年也。明治十四年九月、故偉人直弼の功業を欽仰する有志等相謀り建碑移文を發し世の同情を求めしに之れに應じて義捐せしもの尠なからず仍て同年十一月廿日東京に於て建碑委員を選定し一切の事務を之れに委任せり。明治十七年二月五日委員等相議り横濱掃部山に紀念碑を建設することに確定し、爾後建設物に關する調査を重ね明治三十六年に至り終に銅像を建設することに决し其設計に着手せり。銅像は正四位上左近衛權中將の正装にして高サ一丈二尺あり原型作者は工學士藤田文藏、鑄造者は岡崎雪聲なり、其臺石は工學博士妻木賴黃の設計に成り高サ丈二尺あり其工事は中野喜三郎之れを請負ひ鎗田作造之れを監督し、明治四十二年六月廿六日を以て竣功を告げたり。大老井伊掃部頭の銅像除幕式は、明治四十二年七月十一日、其銅像建設地たる横濱掃部山の頂上に於て之れを舉行せり。此時連日の霖雨漸く晴れて一天拭ふが如く式に列するもの東京横濱は勿論地方より來會ㄝしもの頗る多數に及び定刻午後二時三十分に至り振鈴と共に嚠喨たる海軍々樂隊の奏樂起り銅像建設委員總代相馬永胤壇上に顯はれ事業の經過を報告し、尋いて直弼卿の嫡孫伯爵井伊直忠像前に進みて幕を引けば、美麗なる花崗石の臺上に立ちし堂々たる束帶の像は屹然として頭上に聳え英姿颯爽恰かる生けるが如し、會衆皆肅然敬意を表し暫時片言雙語を發するものもなかりしが、廳て拍手喝采の聲は期ㄝずして奏樂と共に起る、次いで來賓伯爵大隈重信は追悼的祝辭大演說を試みたり、次いで英國總領事ホール、叉英語を以て祝辭を述べ法學博士增島六一郎其大意を通譯し茲に式を閉ぢ會衆皆餘興を觀覽する間に食堂を開き立食の饗應と爲せり、宴酣なる時、大隈伯の發聲にて會衆一同井伊家の萬歲を三唱し、子鶴井伊直安遺族を代表し會衆及び建設委員に對し謝辭を述べ薄暮散會せり。」横浜開港五十年紀年帖

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