鴻池美術店 本町

神奈川縣案内誌
鴻池美術店
本町3丁目47番地(1039)
明治の横浜手彩色写真絵葉書

「従来経験のある處から明治二十三年に當地へ來り、現在の三丁目へ徒手空拳で開業したのであって、外国人向銀器専門として立ったのである。工場は東京に一ヶ所當地に二ヶ所を有してゐて、東京の工場は鎚起家として有名なる黒川榮勝氏が職工を主宰してゐて、其規模は當地のより大なるものである。開店當時米艦隊員の嗜好に投せし製品を 賈出して発展の第一程をなし、今日の隆盛を見るに至った。日露戦役後内地に銀器の需要が激増して來たが、我横浜などではそれ等の需要を大概東京によって仰ぎ、土地に銀器商のあるのを知らないので、餘計な手数と費用と時間とを費やしてゐたのであるそれを甚だ遺憾として、本邦人向商品の販路を開拓し出して新聞などにも時々廣告をしてゐる。嘗てコンノート殿下が御来遊の折、随行員一同へ宮内省から寄贈された銀製美術品は當店と天賞堂とで用命を受けたのであって、其他内外博覧會からの賞状褒状は店内に扁額となって飾られてゐる。近頃型に入れて模様を現はしそれを合せて廉價に 賈るものがあるが素人眼には鳥渡分らぬが、それでは美術品としての價値がないから、本店では一切然ういふ製品を拵へないで鎚起依り金銀盃及洋盃、銀製茶器一式、花瓶及菓子器類其他美術装飾品を製作してゐる。然うして價格の競争をしないで製品で競争をしてゐるのである。」実業之横浜

「貴金属美術品の製造販売を以て知らる其製品は市内の需要を充たすのみならず近年に至り其名海外に及び注文続々として至り業務を一層拡張せし故市内知名の商店に屈指せらる。」現代之横浜

「美術品の製造販売に従事し然も其金属彫刻は精巧にして其名を海外に馳せ直接注文し来るもの絶えず、現主與吉氏はY校出身の人にして新進の学識を有し横浜の金属製美術品の需要は之を他に仰がず自ら之を供給し尚海外に向って盛んに輸出を為さんとの希望を有し熱心業務の発展と擴張とを図り順次其目的に近きつつあり氏の方針は薄利多売なれど価格の競争よりは品質の競争を為し信用歳と共に高めり。」現代之横浜

貴金屬美術工藝品商 鴻池與吉「本町通の大家櫛比せる間、金銀珠玉の美術工藝品を羅列し人目を眩せしむるものは鴻池美術店である、店主與吉君は嘉永元年江戸に生れ、長く斯業に從事し、普く内外人の信用ありしが、本邦製銀器の外人間に賞翫せらるゝといふに、橫浜市内に其營業者の無きを歎じ、明治廿三年橫浜に店舗を始めた、或日一外人來店して一金器を求め去ったが、須臾くしてり來つて曩の金器を返戻して其の性質が疑はしいと云った、君直に快諾して若し證明するを得ば如何と問ふ、客は勿論買取らうとある、で職に忠なる君は之を大阪造幣局に送りて鑑定の證明證を得て示した、客初めて其熱心に驚き且つ大に信任さるゝに到った、君は目下の銀器は大槪打出機械を用ひた粗惡物の多いを慨し、斯くては本邦美術の骨髓を傷ふものであると、必ず手工彫刻品を精選して裏面に證印を附し欺かざるを誓ひつゝある、由來懸羊賣狗の商工藝家多き中に、君の如き眞摯なる人を見出したは美術界の譽とすべ 所であらう、」横濱成功名誉鑑

murray

0 件のコメント:

コメントを投稿