宝積寺 根岸町

横浜社会辞彙
寶積寺
根岸町字1418番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書

竇積寺「根岸町字上四百十八番地にあり横濱名木のたる槇樹及び二三の大玉楠は蓊鬱として翠色滴るが如く根岸杉田の煙波は一望の裡にあり幽邃の風光は自ら佛威を示して根岸方面の霊場たり境内六百四十坪あり本尊は兩劔の不動尊にて智證大師の作なり古義真言派にて開山は今を距ること六百五十有餘年にて源頼朝公の幕府を鎌倉に開きたる頃にて時の眞言名僧が一切藏經中大寶積經一百二十巻の名を用ひて寶積寺と名けて明王山と號す後ち永正元年甲子の年に中興し永祿年中僧賴順再興す格式は古跡上通りの位を有し本寺本山等の代理を勤むるの資格あり徳川時代に於ては八幡宮白瀧不動尊稻荷社薬師堂伊勢山太子堂白山權現第六天等十七末社の別當たり本堂は間口六間奥行五間半あり藥師堂間口二行奥行二間半あり本尊薬師如来は行基菩薩の作にて横濱七藥師の其一なり其他弘法大師木像辨才天正觀世音千手觀音釋迦誕生佛八祖大師あり什物には十三佛及び佛鏡古鏡鎌倉八幡社内にありたる法華堂古文書等あり檀家百六十軒あり其總代は森次吉新井辰五郎中島六左衛門の三氏にて住職は高梨興賢君なり 新編武蔵風土記曰く除地二反村の北にあり古義真言宗石川寶生寺未明王山不動院と號す本堂六間に五間開山の年代を傳へず永正元年時の住僧中興し其後永祿年中賴順と云ふ僧再び中興すと云本尊不動の立像長二尺餘智證大師の作なり大子堂四間に二間の堂にて門前にあり」横浜社会辞彙

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