飯沼眼科医院 不老町

横浜社会辞彙
飯沼眼科医院
眼科
不老町3丁目226番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書

飯沼貫三郎「君は眼科の専門家として横濱杏林界俊髦の一人なり明治四年九月三日を以て岐阜縣美濃國稻葉郡加納町に生る飯沼讓作氏の二男なり祖父は有名なる飯沼長順氏なり君は幼にして聰明の聞へあり頗る學を好みて名古屋中學校に入り優等の成績を以て卒業し次で東京に出で明二十二年九月十四日海軍々醫生徒となり同二十六年十二月二十日帝國日本海軍候補生となり呉鎮守府病院附を命ぜられ同二十八年四月十五日海軍省軍醫に任ぜられ海軍兵學校附きに補せらる同年八月十八日本職を免じ旅順港海軍根據地海兵團附となり同年十二月二十六日勳六等に叙し瑞寶章を授けられ同月二十九日軍艦海門乘組を仰付らる明治二十九年七月二十五日秋津洲乘組仰付られ明治三十年十一月一日佐世保海兵團附に補せらる同三十一年十月一日海軍中軍醫に任ぜられ明治三十二年三月九日高千穂艦乗組仰付らる同三十三年一月十九日佐世保水雷團附に補せられ同年九月二十五日海軍大軍醫に任ぜらる同年十月八日常備艦隊第一驅逐隊附に補せられ同年十二月十四日高千穂艦軍醫長に補せらる明治三十四年三月十二日海門軍醫長に補せられ同年十一月三十日勲五等に叙し瑞寶章を授けらる同年十二月二十七日横須賀海軍兵器廠軍醫長に補せられ明治三十七年一月十二日聯合艦隊附屬敷設隊附に補せられて日露の大戦役に従事す明治卅八年待命仰せ付られ上京して帝國大學科大學に於て醫學博士河本重次郎氏に就き眼科學を専修す明治三十九年四月一日勲四等に寂し旭日小綬章を授けらる同年十一月三十日豫備役仰付られ横濱市に於て醫術を開業し同年十二月二十七日正六位に叙せらる明治四十一年七月十日文部大臣より看護婦講習所教員の認可となる明治四十五年九月三日現在の地に醫院の起工式を擧げ同年十一月二十五日新築落成して不老町より移轉す君は質性穎敏にして識量あり能く患者に對して親切を盡すを以て人の悦ぶ所となる君は又多趣味の人にて玉突を能くし其寫眞術に至りては技能抜群の稱あり夫人まさ子は生花の師範として瑞松古流の達人にて白裕と稱す長男讓氏は(十六歳)尋常中學校に入り二女 静子嬢は吉田小學校に在學す」横浜社会辞彙

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