病院
若葉町3丁目29番地(390)
明治の横浜手彩色写真絵葉書
杏林の偉材 須藤鑛作「横濱病院長須藤鑛作君は横濱醫界に於ける偉彩なるのみならず、又政治界に於ても錚々たる人士なり、先考貞治翁鄉里にありて長く里正の職にあり、偶々隣村と難を構へて訟獄多年爲めに家屋を蕩盡すれ共、 事茍くも全村の安危に關する者恬として憂ふる色なく、興を俳句に托して悶を遣る、養華堂紫雲と號し、『江の月の上を降りめく時雨かな』の句入口に膾炙す、君幼にして家學を受け、漸く長じて足利に行き、平塚承啓氏の門に入りて刀圭を學ぶ、明治二年上州館林に至り藩醫土田薪水氏に従ひ研鑽年あり、師の同僚松本國手君の才を愛して養ふて子となす、後故あうて之を辞す、時に藩侯君を披擢して英學を學ばしむ、よりて京濱間を往楽して英獨二語を修む、明治八年大學東校に在學中、神奈川懸令貸費醫学生を募るや。君一書を裁して野村縣令に呈し裁許を得て其恩典に浴す、蓋し雷時に於ける登龍門として衆の羨む處なり、明治十五年業を了へ、神奈川縣検疫醫に任ぜられ、避病院黴毒病院十全病院等に歴任し、蘭醫プッケマン、米醫ウィルトリッチ英醫ウイラー等を助けて功あり、又警察、裁判所、三菱會社等の醫務囑托を受く、次で檢疫官市醫學校醫を兼ね、市會議員.選ばれ衞生常設委員及び惡疫豫防委員なり、横濱醫會々長理事幹事等に推さる、明治十六年に至り相生町三丁目に開業醫として門戶を開き、廿二年横濱病院を辨天通三丁目に建設し、樫村青山佐藤甲野櫻井等の諸博士ワンドバイテン敎授等を招聘して同業者の爲に講演會を開き大に貢献する所あり、廿三年現所に轉じ、廿八年東京傳染病研究所に入り、再歸熱病源を發明し醫學界に貢献する所少なからず、其他傳染病豫防策として黴菌實物を撮影して公衆の觀覽に供する等終始公衆衞生に留意して倦まず、 横濱市に於ける衞生思想の發達は全く國手の皷吹によるもの多きを認む、君現に横濱醫師會副會長たり、君又政界に辣手を振ひ、 第一期衆議院選挙に際して商人派の横暴を膺らし、足尾鉱毒問題には田中正造翁を助けて盡力する所あり、この篤學にして義侠なる國手を有するは實に全市の誇ならずや、君は栃木縣阿蘇郡の人安政元年一月を以て生る」横浜成功名誉鑑
六角病院「院主須藤鑛作氏は刀圭界の一偉人なりとす主義の博愛なる行爲の公共的なる共に斯業の泰斗となすに足る醫術も亦大に観るべきものなり」京浜名家総覧
神奈川県銀行会社実業家名鑑 |
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