田中銀行 弁天通

現代之横濱
田中銀行
弁天通2丁目33番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書

天下の絲平の遺業 田中銀行橫濱支店「明治十六年十月田中平八君は掉尾の事業として資本金五十萬圓を醵して田中銀行を設立せり、翌年七月長男洋之助君襲名して遺業を繼承し、橫浜は先代發祥の地、殊に緣故深かし故に支店を置きて、生絲賣込の機關に充て確實に營業し、支店支配人平澤春太郎氏亦適材の稱あり、平八君は明治廿年歐米諸國を歷遊し大に得る所あり、現今に至り自家の銀行は積立金六十七萬餘圓を算し隆昌に向ふ、其他第百十二銀行は又君の頭取たる所なり、」横濱成功名誉鑑

天下の絲平 田中平八「自ら稱して天下の絲平と呼號せし田中平八君は、信濃伊那郡赤穗村の人、天保五年を以て生る、幼にして倜儻大志あり、魚估より身を起して、天下の志士と交り、吉田松陰久坂玄瑞藤田小四郎等の勤王家は皆君の材幹膽略を認めて知己となれり、劍戟の間に奔走し砲煙の中に馳驅し、或は獄裏に投ぜられて鐵窗の月に嘯き、或は驛夫となりて無頼傖夫と伍す、而かも凛乎たる志気益砥礪を加へ、安政六年横濱港の開かるるや、率先來つて生絲及製茶の輸出に従事し絲屋と號す、慶應三年に至り、横濱税關の収税、貿易額に比して少額なるは外商の逋税に起因するを看破し、鈴木安兵衛氏等と共同し、輸入商品原價を偽るものと認めば其商品を買上げ、之れが賣捌方は両人負膽するの方法を政府に建言せしに當路直ちに之れを許可したり、之を聞し外商の恐慌大方ならず、始めて實價を申告せしにより政府は忽にして四倍の輸入税を得、劈頭外人の専横に一鐵拳を下せり、明治元年洋銀相場取引所を設けて所長となり、通商司貿易商社及び為替會社の設立さるるに及んで貸付係を命ぜらる、明治四年横濱に生絲會社東京に米商會社を設立す、十六年宿痾を養ふて熱海にあり、私財を投じて水道を布き電線を架す、叉東京に於て田中銀行を起せり、此年六月溘焉として世を終ふ、鳴呼絶代の俊才商界の偉傑、」横浜成功名誉鑑

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