関屋洋服店 太田町

神奈川縣案内
關屋
洋服裁縫・毛織物販売
太田町3丁目49番地(926)
明治の横浜手彩色写真絵葉書

關屋 關清吉「歐米新流行の地質を撰び極めて裁縫に意を用ひ且安價の評あり四時注文の數多く斯業者間に盛名を博し一層其特色を發揮せり」京浜名家総覧

洋服裁縫毛織物販賣 關清吉「足袋匠より轉じて洋服職となり終に橫濱一流の洋服店となりたる關淸吉君は江戸白銀の醫家の子なり、嘉永元年の生にて十五歲父に訣れ具に辛酸を甞む、開港後の橫濱に業を求めんと欲し十七歲來りて足袋職となる、翌年遠州の人田中兼吉なる人の募りに應じて洋服職に就く、蓋し斯業の有望なるを看取せし爲めなり、慶應元年五十二番館ラウジー商會に入り米人リー 氏に次でブラウン氏等に從て研究數年、一般職工の淫靡放逸得る處直に散ずるの陋習に倣はず、自制以て大成を期し、明治三年始めて馬車道に一店を創め後太田町に移り關屋と號す、敢て客の多きを欲せず業責を重んじて確實を店則とし、時に狡客を罵倒することあるも曾て職に忠なるを缺かざりき、明治十年西南役に際し東京に出張して被服の務を擔任し收支償はざるを意とせず熱心奉公の事に當れり 、十二年歸來益々奮鬪關屋の基礎漸く固し、十八年時勢の進運に應じ毛織物地質販賣を兼營す卅五年現所に轉じ隆々たる店運金港その比を見ず、辨天通森田屋と共に二大洋服舖稱せらるゝに至る、日露役後養老の爲め三十餘年間輔翼の大功あらし養嗣福太郎君に業を譲り山紫水明の閑天地に退隱せり、四十年五月組織を變じて關合名會社と爲し福太郎君支配人となり社員協力斯界の範たらんを期せり、裁縫の堅實と技倆の卓越なるとは永年の特色にして實に本邦に於ける斯業の先輩たるに耻ぢず、明治四十年洋服業組合の再設發起人として副頭取に推さる、君別に東京府荏原郡平塚村上蛇窪に醬油釀造塲を設け、大關印山市印等は優等品として好評を博せり、」横濱成功名誉鑑

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